想定読者:事業会社の経営企画・財務・FP&A、投資銀行・FAS・PEで投資判断や価値評価を扱う方
前提知識:NPVとIRR、名目と実質の違い(研究の用語は本文で説明します)

設備投資の稟議書の様式に「ハードルレート8%」と印字されている。数年前に決めた数字で、その後は誰も触れていない。一方で、同じ稟議書の売上計画には販売単価の年2〜3%の引き上げが織り込まれ、原材料費や人件費の上昇も前提に入っている。キャッシュフローの側は物価の上昇を反映して書き換えられたのに、割り引く側の率だけが昔のままである。

米国を中心とする上場企業が投資家向けの会議で述べた割引率を、同じ企業について何年分も追いかけた研究によれば、企業の名目の割引率は金利や期待インフレが動いても短期にはほとんど動かず、数年かけて少しずつしか追いつかなかった。シカゴ大学とボストン大学の研究者による論文で、著者らはこの性質を「粘着的な割引率(sticky discount rates)」と呼ぶ。本稿では、何が動かないのか、その結果投資と企業価値に何が起きるのか、物価の前提が変わった日本の実務で何を確かめるべきかを整理する。

この記事が主に参照する研究

Masao Fukui、Niels Joachim Gormsen、Kilian Huber「粘着的な割引率(Sticky Discount Rates)」NBER Working Paper No. 32238

  • 公表:著者のサイトの補遺が2024年2月、NBER WPの初版が2024年3月。参照した版:NBER WP改訂版(2025年7月)を通読し、主要な数値を著者版(2026年8月)で照合。日本銀行金融研究所のDP(2025年10月)としても公表。査読:未査読(WP。学術誌で修正・再投稿中)
  • データ:2002〜2024年の英語の会議通話(決算説明会・投資家会議)で、経営者が述べた新規投資の最低要求収益率(割引率)。1,617社、同じ企業の2時点の差7,378件。上場国は米国が75%、英国が9%で、残りに日本などを含む
  • 方法:割引率の変化を、10年のブレークイーブン・インフレ率と実質資本コストの変化に回帰(相関の分析)。割引率の動きにくい企業と動きやすい企業の投資の差を比較し、改定の摩擦を入れた投資モデル・マクロモデルで帰結を試算
  • 位置づけ:新しいデータで標準的な仮定(割引率は資本コストと1対1で動く)を検証し、期待インフレが投資を直接動かすという新しい経路を理論化した研究

動かないのは​「名目のハードルレート」である

論文のいう割引率は、企業が新しい投資案件に求める最低限の収益率である。NPV​(正味現在価値)の計算で将来のキャッシュフローを割り引く率として使っても、案件のIRRと比べる足切りの線として使っても、採否の判断は通常同じになる。実務の言葉ではハードルレートに近い1。会議通話の発言では、ほぼすべての企業がこの率を名目で述べていた。

教科書と標準的なマクロ経済モデルは、この名目の割引率が名目の資本コストと1対1で動くと仮定する。名目の資本コストの変化は、実質の資本コストの変化と期待インフレ率の変化の和にほぼ等しい。割引率がその両方を同じだけ取り込むなら、割引率から期待インフレを引いた実質の割引率は実質の資本コストだけで決まり、期待インフレそのものは投資を左右しない。ところが名目の割引率が据え置かれると、期待インフレが上がった分だけ実質の割引率が下がる。調達の実質コストも事業機会も変わらないのに足切りの線だけが実質的に下がり、投資を増やす方向に働く2。名目と​実質の​キャッシュフローと​割引率を​そろえるという評価の原則から見れば、これは前提のずれである。

同じ著者のうち2人は、姉妹研究で社内の資本コストが市場の資本コストとどれだけ「水準」でずれているかを調べている(自社の​資本コストは​市場と​どれだけずれているかで解説)。本稿の論文が扱うのは水準ではなく時間方向の動きで、割引率がどれだけ遅れて動くか、遅れることで何が起きるかである。前身の研究でも、企業が認識する資本コスト(社内の資本コスト)が1%ポイント上がったとき、割引率の上昇は3〜4年の間隔で平均0.25%ポイント、7〜11年の間隔でも約0.7%ポイントにとどまっていた3。本稿の論文は、そこに期待インフレと実質資本コストの区別を持ち込み、インフレ局面を含む期間で確かめ直した。

割引率は​数年かけて​少し​ずつしか​追いつかなかった

データは、研究助手が会議通話の約16万段落を手で読み、経営者が実際に述べた割引率だけを拾ったものである。仮定の話や社債の利回りは除き、同じ企業では同じ種類の割引率を記録しているため、企業ごとの癖は時点間の比較で打ち消される。期待インフレには、名目国債と物価連動国債の利回り差から求める10年のブレークイーブン・​インフレ率​(BEI)を10か国分使った4。

分かりやすいのは2020〜2022年で、BEIと市場の名目資本コストはおよそ1%ポイント上がった。企業が会議通話で述べる社内の資本コストも、遅れて上がっている。著者らはここから、企業は資本コストの上昇に気づいていたとみる。それでも平均の名目割引率はほとんど動かず、実質の割引率は約1%ポイント下がった5。

期間全体でも同じだった。1.5年以内に割引率を変えなかった企業は80%を超え、改定した企業の割合は1.5年で約15%、5年で約40%だった。割引率の変化をBEIの変化に回帰すると、観測の間隔が1.5年未満では係数が−0.046とほぼゼロで有意でなく、4年の間隔で0.28、そこから1年ごとに約0.12ずつ増えた6。BEIが大きく動いた時期や投資の多い時期に限っても短期の反映は増えなかった。著者らは、大きな変化が必要になるまで待っているのではなく、一定の確率でしか見直しの機会が来ない状態に近いと解釈し、これをモデルの前提にしている7。

企業の間の差も大きい。前回と同じ割引率を述べた割合が90%以上の企業を「粘着的な企業」、それ未満を「柔軟な企業」に分けると、半年未満で改定したのは前者で1%未満、後者で約20%だった。BEIの反映を示す係数は粘着的な企業で0.043と有意でなく、柔軟な企業で0.71だった。もっとも柔軟な企業も数年かけて取り込んでおり、即座に1対1で動いてはいない8。

対照的なのが価格の見通しである。著者らは会議通話から、企業が述べた原材料や製品の将来価格(71品目、2,883件)を別に集めた。予想の期間に合わせて測った累積のBEIが1%ポイント高いと、予想価格と現在の価格の差は0.80%ポイント大きく、全部を反映する1と統計的に区別できなかった。割引率の分析とはBEIの測り方が異なる点に注意したい。粘着的な企業でも同じだった9。図1は、割引率と価格見通しへの反映を並べたものである。

図1 期待インフレの反映 割引率と価格見通し図1 期待インフレ1%ポイント上昇の反映BEI 1%ポイント当たりの反映(%ポイント)1.0=教科書どおり全部反映。BEIの定義は行で異なる0.00.51.0割引率(全企業)観測の間隔1.5年未満−0.046割引率(全企業)観測の間隔4年0.28割引率粘着的な企業0.043割引率柔軟な企業0.71キャッシュフロー側企業の予想価格変化0.80棒=推定値、細い線=95%信頼区間(編集部計算)赤い点線=標準的なモデルの前提(1対1)割引率の行:10年BEI(年率)の変化に対する係数価格の行:予想期間の累積BEIに対する係数粘着的・柔軟は観測の間隔をまとめた平均
出所:R1(NBER WP 改訂版, 2025年7月)​表2列1・​列2(p.21)、​表3列1(p.24)、​表4列1(p.25)の​推定値と​標準誤差を​基に​大手町​プレップ​作成。​割引率の​行は、​同じ​企業の​2時点の​名目割引率の​差を、​その間の​10年​ブレークイーブン・​インフレ率​(BEI、年率)の​変化と​実質資本​コストの​変化に​回帰した​係数。​価格の​行は、​会議通話で​企業が​述べた​投入・​産出品目の​予想価格変化​(予想価格と現在の価格の差、%)を、​予想の​期間に​合わせて​測った​累積BEIに​回帰した​係数。​説明変数の​単位・期間と​回帰の​設計​(固定効果など)が​行ごとに​異なり、​厳密に​同じ​条件の​比較ではない。​相関の​分析で、​因果の​識別ではない。​標本は​英語の​会議通話で​割引率を​述べた​上場企業​(75%が米国上場、2002〜2024年)。

予想価格はインフレに合わせて動くのに、割り引く率は動かない。冒頭の稟議書と同じ構図である。著者らはここから、粘着性を「インフレへの一般的な無関心」では説明しにくいとみている。

割引率を​据え置く​企業ほど、​期待​インフレが​上がると​投資が​増えた

実質の割引率が下がれば、採択される案件は増えるはずである。著者らはこれを、粘着的な企業と柔軟な企業の投資の差で確かめた。純投資率(設備投資から減価償却を引き、前期の有形固定資産で割った比率)を使うと、BEIが1%ポイント高い年には、粘着的な企業の純投資率が柔軟な企業より3.3%ポイント高かった(標準誤差1.62、5%水準で有意)。実質資本コスト、トービンのQ、規模、業種ごとの年の効果、国ごとの年の効果、景気への感応度の違いを統制しても結果は似ていた10。

補強するのが、粘着的な企業がまれに率を改定した年の結果である。据え置いていた期間に限ると差は3.22%ポイントで有意だったが、改定した年(前年を含む)には−1.83%ポイントと符号が逆になり、有意でもなかった(標準誤差5.43)。企業の固定的な性格の違いが差を生んでいるなら、改定の有無で関係が消えることは説明しにくい。著者らはここから、差を生んでいるのは割引率の粘着性そのものだと読んでいる11。ただしBEIの変化は外から与えられた実験ではなく、推定は相関の比較である。投資の標本は上場企業の有形固定資産の14%にとどまる。

なぜ据え置くのか。著者らは原因の分析を範囲外としつつ候補を挙げる。率が頻繁に変わると事業部が有利な率を求めて争うので、動かない率を規律に使う。競争の弱い企業では、経営者が率を下げて規模拡大に走らないよう、めったに変えないと約束する。観察できない資本コストを推計し直す手間を省く。データでは、粘着的な企業ほど複数の事業セグメントを持ち、競争に言及する頻度が低く、規模が小さい傾向があり、これらの説明と矛盾しない12。

据え置きの代償も試算されている。米国の1980〜2024年の資本コストの変動を模した較正モデルでは、粘着的な企業の期待企業価値は、資本コストに合わせて割引率を動かす企業より中央値で4.4%低く、柔軟な企業の損失はほぼゼロだった。著者らは、事業部間の争いのような組織の摩擦が企業価値を約10%下げるとの先行研究を引き、摩擦を抑える効果がこの損失を上回るなら、据え置きは合理的な選択になりうると述べる13。

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表1 研究が示した主な数値
項目数値補足出所
割引率を1.5年以内に変えない企業80%超5年では約40%が改定(1.5年では約15%)R1 p.4・図2
2020〜22年のBEI上昇と平均の名目割引率約1%ポイント上昇/ほぼ不変実質の割引率は約1%ポイント低下R1 p.4・図1
BEI 1%ポイント→割引率(4年)0.28%ポイント1年ごとに+0.12%ポイント。1.5年未満はほぼゼロR1 表2
BEI 1%ポイント→企業の予想価格0.80%ポイント1(全部反映)と有意差なし。粘着的な企業でも同じR1 表4
BEI 1%ポイント→粘着的な企業の純投資率+3.3%ポイント柔軟な企業との差。標準誤差1.62。割引率を改定した年には消えるR1 表5
粘着的な企業の期待企業価値の損失4.4%較正モデルの中央値(柔軟な企業はほぼ0%)R1 p.42
前身研究:資本コスト1%ポイント→割引率0.25→約0.7%ポイント観測間隔3〜4年と7〜11年R2 p.6
出所:R1(NBER WP 改訂版, 2025年7月)​p.4・​図1・​図2・​表2・​表4・​表5(p.16〜27)・p.42、​R2(NBER WP 改訂版, 2024年6月)​p.6 を​基に​大手町​プレップ​作成。​BEIは​10年​ブレークイーブン・​インフレ​率。​R1の​標本は​英語の​会議通話で​割引率を​述べた​上場企業1,617社​(75%が米国上場)。​回帰の​結果は​相関で、​因果の​識別ではない。​企業価値の​損失は​モデルの​試算で、​観測値ではない。

研究の​範囲と、​読み​過ぎてはいけない点

第一に、標本は英語で会議通話を開く大企業で、上場国の75%が米国である。日本企業も含まれるが件数は示されておらず、日本だけの結果はない。第二に、割引率を会議で述べた企業に限られる。規模以外に調べた特性(成長、レバレッジ、トービンのQ、収益性など)と報告の有無には有意な関係が見られなかったが、述べない企業の運用は分からない14。第三に、投資との関係は相関であり、期待インフレの変化を外生的に動かした実験ではない。

論文の後半はモデルによる理論的な帰結である。割引率が粘着的だと、実質金利の変化に対する投資の反応は教科書のモデルより小さくなる。一方、キャッシュフローの変化への反応は変わらない。家計の需要が増えると消費と投資が同時に増え、中央銀行のインフレ目標の引き上げに対する投資の反応は教科書のモデルの4倍になった15。これらは較正したモデルの数値で、現実の経済の予測値ではない。

研究段階はWP(未査読)で、2026年8月の著者版まで改訂が続いている。記事で使った主な数値は著者版でも同じだが、価格見通しの係数は著者版の表で0.84と、改訂版の0.80からわずかに変わっている16。既存の調査研究は、尋ねる割引率の種類と回答企業が調査ごとに違うため、粘着性の有無を検定できないと著者らは指摘する。たとえば、過去10年でハードルレートを1%ポイント以上変えた回数を「ゼロ」と答えた企業が41%あったという調査結果も、大幅な改定が少ないことを示すだけで、それだけでは標準的な仮定を否定できないという17。

大手町​プレップの​考察:据え​置き​その​ものより、​前提の​食い​違いが​問題に​なる

以下は編集部の見方であり、論文が検証したものではない。

実務の言葉に直すと、企業はキャッシュフローの物価前提を素早く更新し、割引率は組織の取り決めとして固定している。率の変更が事業部間の交渉材料になるなら、固定には規律としての価値がある。問題は、名目のキャッシュフローが新しいインフレを、名目の割引率が古いインフレを前提にしたまま組み合わされ、実質の足切りの線が誰も決めないうちに下がることである。

この食い違いは、長く物価がほとんど上がらなかった日本で特に大きくなりうると考えられる(仮説)。デフレ期に設定された名目のハードルレートは、低い期待インフレを前提にした実質の要求水準を表していた。物価の見通しが2%台に移った後もその数字が据え置かれていれば、実質の要求水準は設定時より下がっている。日本企業がハードルレートをどれだけ改定してきたか、どれだけ粘着的かは、この研究からは分からない。

金利との関係にも含意がある。割引率が粘着的なら、金利が上がっても社内の率に入るまで投資の判断はあまり変わらない。日本企業の設備投資の金利感応度を推計した日本銀行調査統計局のスタッフの研究では、中期金利の1%ポイント上昇に対する設備投資の減少は3〜4年後にピークとなった18(利上げで​日本企業の​設備投資は​どこまで​鈍るかで解説)。両者を結び付けた分析はないが、率の見直しの遅れは反応が遅れる理由の候補になりうる。

日本の​実務への​応用:物価見通しが​変わった​後の​稟議の​前提

日本で前提が動いた大きさは、一次資料で確かめられる。日本銀行の短観の「企業の物価見通し」で、全規模・全産業の企業が見込む5年後の物価全般の上昇率(前年比)の平均は、2021年3月調査の1.0%から2026年9月調査の2.5%へ1.5%ポイント上がった。大企業・製造業に限ると0.6%から2.2%である19。10年国債の利回りは2021年3月31日の0.104%から2026年10月21日の2.923%に上がり20、日本銀行は2026年9月に政策金利を1.25%程度に引き上げた21。短観の値は企業へのアンケートで、論文が使った市場のBEIとは指標が違うが、論文は米国で両者の変化が強く連動していたことを示している。

この間、東京証券取引所は2023年3月にプライム市場・スタンダード市場の上場会社に資本コストや​株価を​意識した​経営を要請し、自社の資本コストを把握して現状を分析するよう求めた22。ここで把握が求められるのはWACCや株主資本コストなどの水準である。研究が示したように、社内の資本コストを更新しても、案件の採否に使うハードルレートがそれに連動するとは限らない。

実務では、自社の率がどの物価前提で決まったかを記録して名目と実質の両方で管理し、稟議のキャッシュフローの物価前提と率の前提インフレを同じ表に並べることが出発点になる。事業別の​ハードルレートを使う会社では事業ごとに、全社の予算前提​(為替・物価・金利)を統一している会社ではその物価前提を率の見直し基準に組み込む形が考えられる。

設例:ハードル8%を​据え置いた​乙社

学習用の設例(架空)

  • 乙社(架空の製造業)は2021年に名目のハードルレートを8.0%と決め、据え置いている。設定時に前提とした期待インフレ率は1.0%(仮定)
  • 現在の期待インフレ率は2.5%(仮定。上の短観の動きを参考に置いた丸めた数値で、統計値そのものではない)
  • 検討中の案件は投資100億円、期間10年、現在の価格で年13.59億円の実質キャッシュフローを生み、実質IRRは6.0%。名目のキャッシュフローは期待インフレ率で毎年増える。税と残存価値は考えない

名目と実質の換算はフィッシャーの式(1+名目=(1+実質)×(1+インフレ率))による。設定時の実質ハードルは6.93%だった。期待インフレが2.5%に上がった今、名目8.0%のままなら実質は5.37%で、1.56%ポイント低い。表2は、名目の率を据え置いたときに期待インフレの水準によって実質の率がどう変わるかを示す。

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表2 名目ハードルを据え置いたときの実質ハードル
名目ハードルインフレ0.0%インフレ1.0%インフレ1.5%インフレ2.0%インフレ2.5%インフレ3.0%
7.0%7.00%5.94%5.42%4.90%4.39%3.88%
8.0%8.00%6.93%6.40%5.88%5.37%4.85%
9.0%9.00%7.92%7.39%6.86%6.34%5.83%
10.0%10.00%8.91%8.37%7.84%7.32%6.80%
出所:大手町​プレップ作成​(計算例)。​実質​ハードル=​(1+名目ハードル)÷​(1+期待インフレ率)​−1。​太字の​行は​設例の​乙社​(名目8.0%据え置き)。​期待​インフレ​率1.0%から​2.5%への​上昇で、​実質は​6.93%から​5.37%へ​1.56%ポイント​下がる。​期待​インフレ​率の​値は​計算の​ための​仮定で、​特定の​統計の​値ではない。

この差は採否を変える。図2のAは設定時の判断で、実質IRR 6.0%の案件は実質ハードル6.93%に届かず、NPVは−4.3億円である。Bは物価が上がった後、キャッシュフローにはインフレを入れたが率を据え置いた場合で、案件の実質的な中身は同じなのにNPVは3.1億円と正になる。Cのように名目の率を9.60%に上げて実質を保てば、NPVはAと同じ−4.3億円に戻る。

図2 設例 割引率の扱いとNPV図2 設例:同じ実質の案件のNPV(億円)投資100億円・10年・実質IRR 6.0%の案件(架空の数値)0−4.33.1−4.3−15.1A設定時1.0%8.00%B据え置き2.5%8.00%C実質を維持2.5%9.60%DCFは物価一定2.5%9.60%インフレ率インフレ=期待インフレ率、率=名目ハードルレート
出所:学習用の​仮定に​基づき大手町​プレップ作成​(乙社は架空)。​投資100億円、​10年間、​現在の​価格で​年13.59億円の​実質​キャッシュフロー​(実質IRR 6.0%)、​残存価値なし・​税は​考慮しない。​A〜Cは​名目​キャッシュフロー​(実質値×(1+期待インフレ率)の​t乗)を​名目​ハードルで​割り引いた。​Cの​名目​ハードル9.60%は、​設定時の​実質​ハードル6.93%を​保つ値((1+8.0%)×(1+2.5%)÷​(1+1.0%)​−1)。​Dは​キャッシュフローを​物価一定の​まま​名目の​率で​割り引いた、​逆向きの​不整合の​例。​緑=正の​NPV、​青=負の​NPV、​赤=不整合に​よる​過小評価。

逆向きの食い違いにも注意が要る。Dは率を9.60%に引き上げたのに、キャッシュフローを物価一定のまま置いた場合で、NPVは−15.1億円まで下がる。率の見直しだけを先に進め、計画の物価前提を更新しなければ、今度は案件のNPVを過小評価する側に誤る。設例が示すのは、率を上げるか下げるかではなく、キャッシュフローと率が同じ物価前提に立っているかどうかで結論が変わるということである。

明日から​使える​確認項目

  1. 現行のハードルレートについて、設定した年月、設定者、根拠資料、設定時に前提とした期待インフレ率と10年金利を一覧にする。記録がなければ設定時点の短観の物価見通しやBEIで補い、推計と注記する
  2. 名目のハードルレートと現在の期待インフレ率から、設例と同じフィッシャーの式で実質の率を計算し、設定時の実質の率との差を出す。差が0.5%ポイントを超えていれば(目安は社内で決める)、見直しの議題に載せる
  3. 直近1年の稟議から数件を選び、売上単価・原材料・人件費の上昇率の前提と、ハードルレートの前提インフレを同じ表に並べる。前者が後者を上回る案件は、率を実質で保った場合(図2のC)でも採択されるかを再計算する
  4. 見直しの方法を決める。毎期の改定が事業部間の交渉を招くおそれがあるなら、「期待インフレまたは資本コストが前回設定から一定幅以上動いたら改定する」「3年ごとに必ず点検する」といった発動条件と周期を事前に定める
  5. 投資委員会への質問として「このIRRは名目か実質か」「キャッシュフローの物価前提とハードルの前提インフレは同じか」の二つを定型にする
  6. 事後評価では名目と実質の両方で達成度を測り、物価の上振れで達成したように見える案件を区別する

まとめ

会議通話で述べられた割引率を同じ企業について追った研究によれば、企業の名目の割引率は期待インフレや資本コストの変化をすぐには取り込まず、数年かけて部分的に追いつくだけだった。一方で価格の見通しはインフレをほぼそのまま反映しており、割引率を据え置く企業ほど期待インフレが上がった年に投資率が高かった。結果は米国中心の大企業の相関で、マクロの帰結はモデルの試算だが、物価前提が大きく変わった日本企業にとって、稟議のキャッシュフローとハードルレートが同じ前提に立っているかは確かめる価値がある。点検の要は、率の水準そのものより、率を決めたときの物価前提を記録し、キャッシュフローの前提と並べて見ることにある。

脚注

  1. R1(NBER WP 改訂版, 2025年7月)p.8〜9(1節)。割引率は企業が新規投資に受け入れる最低限の収益率で、NPVの計算に使っても足切り(ハードル)として使っても、標準的な状況では同じ投資判断になると説明している。会議通話ではほぼすべての企業が名目で述べていた(p.11、規制で資本コストが決まる一部の公益企業を除く)。本記事のページはPDFの物理ページ(以下同じ)。↩
  2. R1 p.3、p.9〜10(1節)。名目資本コストの変化は実質資本コストの変化と期待インフレ率の変化の和にほぼ等しく、割引率が1対1で動くなら実質の割引率は実質資本コストだけに依存する。名目の割引率が動かなければ、実質の割引率は期待インフレの上昇分だけ下がる、という整理。↩
  3. R2(NBER WP 改訂版, 2024年6月)p.6(序論。PDFの物理ページ)。企業が認識する資本コスト(perceived cost of capital)の1%ポイント上昇に対し、割引率は3〜4年の間隔で平均0.25%ポイント、7〜11年の間隔で約0.7%ポイント上昇。R1 p.4脚注1・p.22は、前身研究が期待インフレと実質資本コストを分けていなかった点を自らの追加分と位置づけている。水準のずれを扱う姉妹研究はR3。↩
  4. R1 p.10〜11(2.1節)、p.13(2.3節)。書き起こしはRefinitivとFactSet(2001年第4四半期〜2024年第1四半期)。資本予算の語を含む約16万段落を研究助手が読んだ。同じ企業は同じ種類の割引率を記録しており(p.11脚注6)、BEIは10か国分(Bloombergから取得)。↩
  5. R1 p.4(序論)、p.15〜17(3.1節・図1)。BEIと名目資本コストは2020〜2021年に同程度上昇し、企業が述べる社内の資本コストは2021〜2023年に遅れて上昇、平均の名目割引率は2020〜2023年に上がらなかった。なお2024年4月の研究要約(BFI Research Brief)は上昇幅を1.5%ポイントとしていたが、本記事は改訂版の「約1%ポイント」を使う。↩
  6. R1 p.4、p.18(図2)、p.19〜21(図3、表2列1・列2)。表2列1は1.5年未満の係数−0.046(標準誤差0.13)と1.5年以上との交差項0.44(同0.22、5%水準)、列2は4年基準の係数0.28(同0.16、10%水準)と1年ごとの交差項0.12(同0.057、5%水準)。観測数7,378。四半期、観測間隔、年×国×業種の固定効果を含む。2020〜2021年を除いても同様(表A4)。↩
  7. R1 p.17、p.22(表A5・表A6)、p.35〜36(Calvo型の摩擦についての議論、図A2)。↩
  8. R1 p.22〜24(3.3節、表3列1・列2)。粘着的な企業のBEIの係数0.043(標準誤差0.062)、柔軟な企業0.71(同0.27、5%水準)。柔軟な企業も4年基準で0.57、1年ごとに0.18増える(列2)。粘着的・柔軟の区分は有形固定資産で加重した中央値付近で分けたもの。↩
  9. R1 p.23〜26(3.4節、表4列1・列4)。予想価格の変化(企業の予想価格と現在の価格の差、%)を、主な上場国の累積BEI(予想の期間に合わせて測ったもの、Bloomberg)に回帰した係数0.80(標準誤差0.25、1%水準)で、1と有意差なし。粘着的な企業との交差項0.21は有意でない。投入価格と産出価格の差もなし。割引率の回帰(10年・年率のBEIの変化)とは説明変数の定義が異なる。↩
  10. R1 p.26〜27(3.5節、表5列1〜4)。純投資率=(設備投資−減価償却)÷前期の有形固定資産×100。列4の係数3.32(標準誤差1.62、5%水準)、列1〜4の点推定は3.32〜3.81。観測数8,251企業年。↩
  11. R1 p.27〜28(表5列5)。据え置き期3.22(標準誤差1.60、5%水準)、改定した年−1.83(同5.43)。2020〜2021年を除く推定(表A7)と総資産成長率を使う推定(表A8)でも同様。投資の標本のカバー率はp.26。↩
  12. R1 p.28〜30(3.6節)、表A9(p.69)。粘着的な企業のダミーを特性に回帰すると、複数セグメント+0.26(5%水準)、競争が強い(中央値超)−0.062(5%水準)、資産が大きい(中央値超)−0.16(1%水準)。相関であり、原因を特定したものではない。↩
  13. R1 p.30、p.41〜42(4.5節)。資本コストをCox-Ingersoll-Ross過程で米国1980〜2024年に合わせて較正し、1,000回のシミュレーションの中央値。約10%は Rajan et al.(2000)の推計として著者らが引用したもの(p.30)。著者版(2026年6月)p.39でも4.4%。↩
  14. R1 p.12〜14(2.2節・2.5節、表A1〜A3)。報告する企業は大企業に偏り、米国の上位100社のうち40社が少なくとも1回報告。規模以外では、成長・レバレッジ・トービンのQ・収益性などの係数は小さく有意でなかった(調べた特性の範囲での結果)。↩
  15. R1 p.37〜41(4.3節、命題3・4、図4・5)、p.44〜48(6.1〜6.2節、図7〜9)、p.51(6.3節)。インフレ目標を0.1%ポイント引き上げる試算での比較(図7)。モデルの較正は実質金利9%など(表6、p.36〜37)。↩
  16. 著者版(2026年6月、Gormsenのサイトで公開)と照合した。1,617社・7,378件・80%超・約15%/約40%・米国75%/英国9%・係数−0.046/0.28/0.12・0.043/0.71・3.32/3.22/−1.83・14%・4.4%・4倍は同じ(著者版 p.3〜4・11〜12・14・17・19・22・25〜26・39・42)。価格見通しの係数は著者版の表(p.24列1)で0.84(標準誤差0.25)、粘着的な企業との交差項0.19で、改訂版の表4(0.80、0.21)と異なる(著者版の序論 p.4 は「0.8」)。本記事の本文・図1は改訂版の値を使う。日本銀行金融研究所の版(IMES Discussion Paper 2025-E-16、2025年10月)は改訂版と同じ要旨で、著者の1人が同研究所の客員研究員として一部を執筆したと注記している(同版 p.3)。見解は日本銀行のものではない。↩
  17. R1 p.75〜76(付録D)。41%は Graham(2022)の調査結果を著者らが引用したもの(本記事では原典を未確認)。著者らは、調査ごとに割引率の種類と回答企業が異なるため、調査の平均値の推移からは粘着性を検定できないとしている。↩
  18. R8 p.17(日本語版 No.25-J-4、図表6。PDFの物理ページ)、英語版 No.25-E-13 p.19。中期金利1%ポイント上昇に対する設備投資比率(I/K)のインパルス応答で、全企業の設備投資は3〜4年後をピークに有意に減少した。粘着的な割引率との関係は同研究では分析されていない。↩
  19. R4、各調査の「7.企業の物価見通し」(p.7)の物価全般の見通し(前年比、見通しの平均)。2021年3月調査は2021年4月1日、2026年9月調査は2026年10月1日公表。↩
  20. R5。10年国債の利回り(財務省公表の各日の値)。↩
  21. R6。無担保コールレート(オーバーナイト物)を1.25%程度で推移するよう促す方針。↩
  22. R7 p.2〜5。資本コストや資本収益性を的確に把握し、現状分析・計画策定・開示を行うよう求めている。↩

参考文献​(2026年10月確認)

※本記事は教育目的の一般的な解説であり、投資助言・法務・税務の助言ではありません。研究結果は各論文の対象・期間・方法の範囲で得られたもので、日本の個別企業・案件にそのまま当てはまるとは限りません。設例は学習用の架空の数値です。アイキャッチ画像は生成AIによるイメージです。