この記事で分かること
- 1877年の輪船招商局による旗昌輪船公司の買収で、対価と支払条件について米国公使の報告と研究者の整理が何を伝えているか
- 分割払いの対価を売主からの借入として読み、割引率と利息の付き方で実質の対価がどう変わるか(単純化した設例)
- 官の資金と民間の株式に頼った資金計画の前提が崩れたとき何が起きたか、現代の買収で何を確かめるべきか
想定読者:M&Aの実務や買収ファイナンスを学んでいる方、事業会社で買収の資金計画や稟議に関わる方
前提知識:現在価値の考え方の基本(分割払い対価・Sources & Usesは本文で説明します)
光緒2年11月18日(1877年1月2日)、清朝の官督商辦(官が監督し、商人が経営する)の汽船会社である輪船招商局(China Merchants’ Steam Navigation Company)は、米国のラッセル商会(Russell & Co.、旗昌洋行)が経営する旗昌輪船公司(Shanghai Steam Navigation Company)と買収の契約を結んだ。上海の新聞『申報』を引く研究によれば、招商局は旗昌の資産一切を222万両(両〈tael〉は当時の銀の重さに基づく通貨単位。円などに換算しない)で引き取り、汽船16隻を得た1。招商局は李鴻章(Li Hongzhang)の手で設立された企業で、この買収も李の後ろ盾のもとで進んだ。
ところが、米国公使の本国への報告では対価は200万両である。どちらが正しいのか。資金を誰が出し、どんな条件で払ったのか。
まず、資料によって対価額の記述が異なる。加えて、同じ範囲の対価でも支払条件によって現在価値が変わり、資金の前提も問われる。本稿では、米国の外交文書、北村敬直(1961)の論文、中国の研究を突き合わせ、資料の記述と研究者の解釈、編集部の計算を分けて整理する。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1875年11月 | 米国公使の報告によれば、招商局の名目資本は100万両で、うち4分の3が払込済み |
| 光緒2年秋(1876年) | 李鴻章が管轄の資金から官款45万両を招商局に貸し付ける(銭荘からの借入の肩代わりが目的) |
| 光緒2年11月18日(1877年1月2日) | 招商局と旗昌輪船公司が草議(買収の契約)を結ぶ。買収費は222万両 |
| 1877年1月30日 | 米国公使が、株主の承認を条件にラッセル商会が船舶その他の資産を売却することで合意したと本国に報告 |
| 1877年2月まで | 両江総督の沈葆楨が各省から官款約100万両を集める(北村の推定) |
| 光緒3年1月17日(1877年3月1日) | 三批60万両の期日。頭批・二批と合わせ計100万両を払い、旗昌の資産の移管を終える |
| 1877年 | 招商局が太古洋行・怡和洋行と運賃協定を結ぶ |
| 光緒3年9月(1877年10月前後) | 李鴻章が、各省から借りた公款の利息を3年間猶予するよう奏請 |
| 光緒6年10月26日(1880年) | 王先謙が招商局の買収をめぐる不正を弾劾 |
| 光緒7年(1881年) | 劉坤一・李鴻章・総理衙門が調査結果と反論を上奏 |
| 1891年 | 招商局が官款を完済したとされる |
三社の運賃競争と、売主が売却を選んだ事情
1877年1月30日付の米国公使の報告は、ラッセル商会が株主の承認を条件に旗昌の船舶その他の資産を招商局へ売ることで合意したと伝える2。北村の集計では、招商局の船は買収前の14隻(小蒸気船を除く)に16隻が加わって一挙に30隻となり、買収前の資金は政府や銭荘(両替・預金・貸付を営む在来の金融業者)からの借入金と株式を合わせて2,188,036両で、買収費はそれを上回った3。
売主の側には売る理由があった。旗昌は招商局や英国系の汽船会社と運賃を下げ合っており、米国公使の報告は、1875年に旗昌側が、政府が招商局に漕米(政府の米)の輸送を市場の2倍を超える運賃で割り当てていると主張していたと伝える4。主張に沿えば、政府による事実上の優遇である。旗昌の株式は額面100両に対し、米国公使の報告では60〜66両、北村の推定では光緒2年(1876年)全体で70両から60両台まで下がっていた5。米国公使は売却を、株主が「危険な状況」から抜け出せたと評し、北村は、汽船会社3社の競争で最大の打撃を受けたのは旗昌だったと述べる6。編集部の整理では、旗昌の株主・ラッセル商会の側が、官の後ろ盾を持つ競争相手に資産を一括で引き取らせ、事業から撤退した形である。
対価は200万両か222万両か——資料ごとの記述を並べる
米国公使の報告では、旗昌側は200万両を受け取り、その半額は3月31日より前に、残りは四半期ごとに5万両ずつ、年8%の利息を付けて払われる7。残り100万両を5万両で割ると20回、つまり5年になる(編集部の計算)。ただし報告は伝聞で、利息の計算方法と支払時点は書かれていない。
北村(1961)は、招商局側の資料をもとに、買収費を222万両とする。契約の文面は「200万両=船舶などの買収値」と「22万両=漢口・九江・鎮江・寧波・天津の埠頭・洋楼・倉庫および花紅一切」の二本立てだったという8。花紅は謝礼・手数料にあたる語で、性格と受取人は資料で確定していない(後述)。支払いについて北村は、頭批・二批・三批(第1〜3回の払い込み)の20万両・20万両・60万両、計100万両を払って資産の移管を終え、残り100万両は分割払い、別枠の22万両は6か月以内に払うこととしたと整理する。三批の期日は光緒3年1月17日で、編集部の換算では1877年3月1日にあたる9。
米国公使の200万両は、北村の整理の本体部分と額が一致する。ただし、報告が別枠を含まない趣旨なのかは文言から分からず、対象範囲の違いは断定できない。本稿では二つの数字を資料ごとに並べる。別枠の22万両について、李鴻章は後の弾劾への反論で、旗昌が埠頭の買収費25万両と花紅10万両の計35万両を求め、招商局が22万両に引き下げたと説明している。これは当事者の説明で、第三者の資料では確かめられていない10。
本体の200万両がどう決まったかは、北村が作成した資産評価の表から読み取れる(表2)。汽船16隻を中心に項目を並べた小計は約250万両で、これを時価に照らして割り引き、200万両とした。項目の合計2,507,200両から見ると約20.2%の割引になる(編集部の計算)。北村は、実際には交渉による値引きだったとし、数字は正確ではないと注記している11。
| 項目 | 上海両 |
|---|---|
| 汽船 16 隻 | 1,488,000 |
| 小輪船・艀など | 85,600 |
| 上海の桟房(倉庫)・埠頭など | 763,600 |
| 漢口・九江・上海の躉船(浮き桟橋) | 110,000 |
| その他の雑器具(約) | 60,000 |
| 項目の合計(編集部の計算) | 2,507,200 |
| 表の小計(約) | 2,500,000 |
| 時価に照らして割り引いた評価(本体) | 2,000,000 |
| 別枠:漢口・九江・鎮江・寧波・天津の埠頭・洋楼・倉庫と花紅 | 220,000 |
| 合計(買収費) | 2,220,000 |
分割払いの対価は売主からの借入である
代金の一部を後払いにする分割払い対価は、売主が買主に代金の一部を貸している状態である。現代のM&Aでは、利息付きの後払いをセラーノート(売主からの貸付)の形にすることも多い。米国公使の報告どおりなら、旗昌の側は100万両を5年かけて回収し、その間の利息を年8%で受け取る。
同じ100万両でも、受け取る時期が先になるほど今日の価値は小さくなる(貨幣の時間的価値)。後払い分の価値は、約定の利率と、受け取る側が求める利回り(割引率)の関係で決まる。残高への利息を毎期末に払い、約定利率と同じ期間基準の割引率で割り引くなら、両者が等しいとき現在価値は額面と一致する。求める利回りと受け取る利息が同じなので、後払いでも損得が生じない。割引率のほうが高ければ額面を下回る。利息の付き方も効くが、報告は年8%の利息付きと明記する一方、計算方法と支払時点は書いていない。
単純化した設例:残額100万両の現在価値
前提(編集部の仮定で、契約書の条件ではない):残額100万両を、四半期ごとに5万両ずつ20回で返す。「利息あり」は期首の残高に四半期2%(年8%÷4)の利息を毎期払う場合、「利息なし」は比較のための仮想の条件で、元本だけを払う場合とする。割引率は四半期複利の名目年率で8%・10%・12%(四半期あたり2%・2.5%・3%)の3通りとする。前払いの100万両は契約時に払ったとみなし、別枠22万両は含めない。
| 割引率 | 利息あり | 額面比 | 利息なし(仮想) | 本体の実質対価 |
|---|---|---|---|---|
| 年8% | 1,000,000 | 100.0% | 817,572 | 2,000,000 |
| 年10% | 955,892 | 95.6% | 779,458 | 1,955,892 |
| 年12% | 914,625 | 91.5% | 743,874 | 1,914,625 |
利息ありなら、割引率8%で現在価値は1,000,000両と額面に一致するが、10%では955,892両(額面との差44,108両)、12%では914,625両(差85,375両)になる。前払いの100万両と合わせた本体の実質の対価は、割引率10%なら1,955,892両で見出しの200万両の97.8%、12%なら1,914,625両で95.7%である。利息をなくした仮想の条件では、割引率8%でも後払い分は817,572両、本体は1,817,572両で見出しの90.9%にとどまる。単純化した設例では、利息をなくすだけで本体の価値は1割近く動く。
買主の側から見れば、この後払いは年8%の借入と同じである。当時の官款(政府・各省から招商局に入った資金。貸付か出資に近いかは資料で確定しない)の利率は、研究では概ね年7〜8%、上海の銭荘の平均的な金利は15%前後だったとされる12。個別の条件ではないが、期間・担保・計算方法などが同等なら、銭荘から借りて一括で払うより売主に年8%で待ってもらうほうが調達費用を抑えられた可能性がある(編集部の解釈)。
誰が資金を出したのか——官款・商股・借入の断片
北村が引く両江総督・沈葆楨(Shen Baozhen)の上奏は、買収費222万両のうち民間の株式(商股)で122万両を集められる見込みだとして、官の資金(官本)100万両の出資を願った。ところが、劉坤一(Liu Kunyi)が引く調査報告では、実際に集まった商股は4万両余にすぎず、招商局は自ら40万両を借り入れたほか、保険金など他の資金を流用して旗昌への支払いに充てた13。北村は実収を4万5千両余とする。見込みの122万両に対し、約3.7%しか集まらなかった計算である(編集部の計算)。沈は当初出資を拒み、商股の見込みを示して説得したのは盛宣懐(Sheng Xuanhuai)だったと北村は記す14。
北村は、沈葆楨が江寧布政使・江安糧道・江海関道と、浙江・江西・湖北から計約100万両の官款を集めたとする15。これとは別に、李鴻章は前年の光緒2年秋、銭荘からの借入(当時約60万両)を官款で肩代わりさせる目的で、管轄の資金から45万両を招商局に貸し付けていた16。米国公使の報告は、政府が各開港場の海関に招商局への前貸しを払わせることを認めたと伝え、額は本文で約133万両(one and a third millions)だが、各海関の内訳の合計は130万両で、文書も「Say 1,300,000」と記す17。この三つが同じ資金か別々かは今回の資料では整理できず、二重計上のおそれがあるため合計しない。買収分の官款の利率も確認できていない。
資金繰りの重さは、年度末の官款残高に表れる。研究者が集計した表では、官款の残高は1875–76年度末の353,499両から、1876–77年度末に1,866,979両へ跳ね上がり、1877–78年度末に1,928,868両で最高となった18。買収の数か月後の光緒3年9月(1877年10月前後)、李鴻章は、各省から借りた公款の利息を3年間猶予し、その間に旗昌と銭荘への債務を順に返す資金繰りとしたいと奏請している19。残高は1879–80年度末に1,903,868両と小幅に減り、1880–81年度末に1,518,867両へ大きく減って、1882–83年度末には964,292両となった。招商局は1877年に英国系の太古洋行(Swire)・怡和洋行(Jardine Matheson)と運賃協定を結んだ。李鴻章・劉坤一の側は、協定で競争が止んだことを買収後の利益の説明に挙げている20。ただし、協定が返済にどれだけ寄与したかを示す財務の数字は確認できていない。
国策色の強い買収と事後の論争——弾劾と調査、「真 相は判明しない」
光緒6年10月26日(1880年)、王先謙(Wang Xianqian)は招商局の買収をめぐる不正を弾劾した。翌年にかけて、劉坤一・李鴻章・総理衙門の上奏が続く21。北村の整理では、王先謙の主な指摘は、招商局の経営者の唐廷枢(Tang Tingshu)と盛宣懐が官款を得て旗昌の株を安値で買い集めた、買収費から自分たちの旗昌株を額面で差し引いた、旗昌の資産を原本どおりに評価した、官款190余万両を5年で返すというが運営に官の監督が及ばない、などである。これは弾劾する側の主張であり、北村は王先謙の文章はやや正確さを欠くとしている22。
これに対し、劉瑞芬(Liu Ruifen)・李興鋭(Li Xingrui)の調査と劉坤一・李鴻章の上奏は、主な点を否定した。45万両は汽船の購入費で使途の報告がある、官款100万両は旗昌に分割で渡した、唐・盛は現銀を受け取っていない、という説明で、商股122万両を集めると沈葆楨に請け合った見込み違いは認めた。北村は、調査する側にも派閥の利害があり、報告も必ずしも正確ではないとする23。花紅の性格も説明が分かれ、李鴻章は旗昌の子会社への補償とし、調査の側には仲介手数料とみる記述がある。北村は仲介手数料はあったと考えるが、証拠は残っておらず、金額も受け取った者も特定できない24。
北村の結論は「この買収事件の真相は判明しない」である。弾劾には政治的な背景があった可能性も挙げるが、北村自身、その推測の裏付けは弱いと認めている25。目を引くのは不正の有無より、数年後に誰も検証を確定できなかったことである。評価の根拠、別枠の中身、資金の流れが、確かめられる形で残っていなかった。
現代の実務への応用——条件・資金・記録を契約の前に固める
1. 見出しの価格を「本 体・別枠・時期・利息」に分解する
旗昌と同じく、現代の「買収総額」も、債務の引受け、付随資産、手数料、後払い分を含むかは案件ごとに違う。株式譲渡契約
2. 後払い分は借入として扱い、現在価値で比べる
売主は後払い分を自分の貸付として、割引率と回収の確実性から評価する。買主は、その利率を他の調達手段の負債コストと比べる。表3の単純化した設例では、利息をなくすと価値は1割近く変わる。契約書では、利息の計算の基礎(残高か元本か)、支払日、期限前返済の可否、買主が支払いを止めた場合の担保や優先順位を、文言で特定しておく。
3. 資金計画は Sources & Uses で「確 定」と「見 込み」を分けて作る
沈葆楨への官の資金の拠出の要請は、商股122万両が集まる見込みを前提にしていた。実際の商股は4万両余で、調査の報告は不足への対応として借入や流用を挙げるが、資金の全体の対応は再現できない。現代の買収では、資金の出所と使途を一致させるSources & Usesを作り、各行に「契約済み」「確約あり」「見込み」の区分を付ける。借入なら貸手のコミットメントレターとその前提条件を確かめ、出資の見込みに頼る部分が崩れたときの代替(つなぎ融資、支払条件の変更、取引の中止)を事前に決めておく(事業会社の買収資金の調達)。資金源の合計が使途と合わないなら、差を未確認として明示する。
4. 支払日程と買収後の返済余力を、同じ表で確かめる
招商局は買収の数か月後に官款の利息の猶予を求め、官款残高は3年ほど高止まりした。契約の支払日程と買収後の資金収支を同じ四半期の表に並べ、利払いの余力はインタレスト・カバレッジ・レシオ、元利金の返済余力はDSCR(元利金返済カバー率)と期ごとの資金繰り表で確かめる。運賃協定のような収益改善を見込むなら、それが無い場合も試算し、リスケジュールを誰にどの条件で頼むかまで想定する(借入余力と返済能力の分析シート)。
5. 公的資金が入る買収では、後から検証できる記録を残す
公的資金や政府の後ろ盾がある案件では、決定の説明責任が後から問われやすい。19世紀の官督商辦とは、公的な資金と後ろ盾のもとで経営者が取引を進める点が似る。違うのは検証の時点で、当時は事後の弾劾と利害を持つ側の調査に委ねられたが、現代では承認と評価の手続を取引の前に踏む。資産の評価と値引きの理由、別枠の内訳、経営者が売主の株式を持っていたか、資金の受払いを承認の時点で記録する。経営者が対象会社に利害を持つなら関連当事者取引の承認の手続を踏み、独立した評価やフェアネス・オピニオンで価格の妥当性を説明できるようにする。買収の数年後には投資後評価で、当初の資金計画と実績の差を検証する。
この記事で確かめられなかったこと
契約書と来稟(招商局から官への報告)の原文は確認しておらず、支払条件は米国公使の伝聞と北村の整理に拠る。分割払いの利息の計算方法、官款の三つの数字の関係と性質も確認できていない。米国公使の報告は、旗昌の株主の受取を1株103両、市場価格より約56%高いと記すが、同じ報告の240万両を22,500株で割ると106.7両で合わず、本稿では根拠に使わない26。運賃協定の具体的な比率は学術資料で裏付けを得られなかった。対象会社の資産や収益を担保にした買収専用の借入は史料に見当たらず、現代の買収ファンドの資金の組み方にそのまま当てはめることはできない。資金の内訳を扱う中国語の専論の本文も入手できていない。
よくある質問
買収の対価は結局いくらだったのですか。
北村
招商局の経営者は買収で不正をしたのですか。
1880年に王先謙が不正を弾劾しましたが、調査と上奏は主な点を否定しました。研究者の北村は、弾劾と調査報告のどちらにも不正確な点があり、真相は判明しないと結論しています。不正があったとも、なかったとも断定できません。
まとめ——価格は条件とともに、資金は前提とともに読む
旗昌の買収で、米国公使は代金の半分を5年の分割で払う条件を伝え、研究者は本体200万両と別枠22万両の二本立てと整理する。後払い分は売主からの借入にあたり、割引率と利息の付き方しだいで実質の対価は変わる。資金は官款と、見込みを大きく下回った商股、借入と流用で賄われ、官款の残高は数年高止まりした。数年後の弾劾は、真相が判明しないまま終わった。条件・資金・記録を契約の前に固めることが、買収の価値と、後から説明できる信頼の両方を守る。
脚注
- 松浦(2017)(R3)の売却に関する記述(p.55付近)と注55〜57。松浦は『申報』1877年1月8日(光緒2年11月24日)の記事と『國營招商局七十五週年紀念刊』(1947)を引き、光緒2年11月18日(松浦の換算で1877年1月2日)に契約し、資産一切を222万両で売却、16隻を取得したと記します。申報の記事そのものは未見です。草議の日付は北村(1961)p.310(R2)とも一致します。招商局が李鴻章の手で設立された企業である点は北村 pp.309–310(R2)によります。↩
- FRUS 1877, No.64(R1)pp.88–89。米国公使 Seward が「上海からの最新の便で知った」として伝えたもので、契約書そのものではありません(伝聞)。Seward は中国企業への官の支援に批判的な立場から書いています。↩
- 北村(1961)(R2)p.303(2)項と注(4)。隻数は文献で食い違い、北村は Feuerwerker が17隻→32隻、李仲公が26隻とする点を注記しています。取得16隻は R3・R6 とも一致します。2,188,036両は北村 p.303(1)項で、政府・銭荘などからの借入金を含む北村独自の集計です。張玲玉(2022)(R4)の表の株式と官款の合計とは年度・範囲が異なり一致しません。↩
- FRUS 1877, No.64(R1)p.89 が引く、1875年6月の米国側の報告。旗昌側の主張(当事者の説明)として伝えられたものです。Dick & Kentwell(R6)も漕米の運賃が外国商社の約2倍だったと記しますが、根拠史料は示されていません。↩
- FRUS 1877, No.64(R1)p.90(22,500株・1株100両、最近は60〜66両で売買)。北村(1961)(R2)p.307 および pp.314–315 は、劉坤一は70余両、王先謙は50両、徐潤は56両と記すなど資料で幅があるとし、光緒2年全体では70両から下っても60両台と推定するのが妥当とします。最高値は200両との記述もあります(p.307)。↩
- FRUS 1877, No.64(R1)p.90。原文は株主が “escape from a dangerous situation” を祝われてよいという趣旨で、当時の米国公使の見方です。北村(1961)(R2)pp.306–307。↩
- FRUS 1877, No.64(R1)p.89。原文は “one-half of which sum is to be paid before the 31st of March, and the balance in quarterly installments of fifty thousand taels, with interest at 8 percent”。利息の計算方法(残高に対してか等)と、別枠22万両を含むかどうかは書かれていません。↩
- 北村(1961)(R2)p.303(1)項、p.307 表の(9)、pp.311–312。契約書・来稟の原文は未見で、北村の引用によります。「二本立て」は北村の読みです。数字は論文の頁画像で一桁ずつ確認しました。↩
- 北村(1961)(R2)p.310末〜p.311。日付は旧暦で、草議11月18日、頭批11月19日、二批12月18日(光緒2年)、三批1月17日(光緒3年)。三批の期日の西暦(1877年3月1日)は、光緒3年1月1日を1877年2月13日として編集部が換算したもので、原本では確認していません。Dick & Kentwell(R6)の船舶一覧も1877年3月1日の売却と記し、整合します。北村は残り100万両の利率を記していません。↩
- 北村(1961)(R2)p.319 が引く、弾劾に対する李鴻章の反論。当事者の説明で、第三者の資料による照合はできていません。↩
- 北村(1961)(R2)p.307 の表「旗昌公司の資産」と表注(1)〜(3)。北村は『招商局来稟及附録』『海防檔』などから作成したとし(いずれも未見)、正確な数字ではない、評価は時価に照らして割り引いたもので実際には交渉による値引きだった、と注記しています。項目の合計と割引率は編集部の計算です。↩
- 張玲玉(2022)(R4)p.5(樊百川1985を引用。官款の利率は大部分が年7〜8%、上海の銭荘の平均は15%)、狄金華・黄偉民(R5)(聂宝璋1983を引用。年7厘〜1分)。いずれも二次文献による一般的な傾向で、旗昌買収に使われた官款の個別の利率は確認できていません。↩
- 北村(1961)(R2)p.316〜317(沈葆楨の上奏と、劉坤一が引く調査報告)、p.311(実収4万5千両余)。北村の本文では、盛宣懐が保証した商股の額が p.312 で「残り120万両」、同頁の後段と p.316 で「122万両」と書かれ、混在しています(220万−100万と222万−100万の違いの可能性がありますが、原因は未確認)。招商局の借入40万両の借入先・利率は不明です。実収の比率は編集部の計算です。↩
- 北村(1961)(R2)pp.309–311。沈葆楨が当初拒んだという記述は徐潤の手記(『自叙年譜』。当事者の回想)にあり、北村が沈の奏議と比べて論じたものです。盛宣懐の募集計画(旗昌の華商持株の持込み、塩商からの募集など)は実現しませんでした。↩
- 北村(1961)(R2)p.311。江寧布政使10万両、江安糧道・江海関道各20万両、浙江巡撫楊昌濬・江西巡撫劉秉璋各20万両、湖北10万両。2月までに集まったという時期は、上奏の日付から北村が推定したものです。張玲玉(2022)(R4)p.4 も1877年に官款100万両としますが、各省の内訳はありません。北村は「官款」、R4 は「貸款」と呼び、性質(貸付か出資か)と利率は確認できていません。↩
- 北村(1961)(R2)p.312。海防支応局銀・直隷練餉・糧台各10万両、保定練餉5万両、東海関10万両の計45万両で、北村は普通は約50万両といわれると注記します。張玲玉(2022)(R4)p.4 も1876年の官款を50万両とします。この45万両の使途は後の弾劾で争点になりました。↩
- FRUS 1877, No.64(R1)pp.89–90。原文は “an advance to the company of a sum of one and a third millions of taels” で、天津・煙台・漢口・牛荘・九江・上海・広東・福州・厦門・汕頭・寧波の各海関の内訳を示します。本文の「one and a third millions」は約133万両にあたりますが、列挙された内訳の合計は1,300,000両(編集部の計算)で、文書自体も “Say 1,300,000” と記しています。伝聞であり、前貸しが実行されたか、貸付か出資かは書かれていません。北村の官款(約100万両・45万両)との関係は確認できていません。↩
- 張玲玉(2022)(R4)表2(出典は朱荫贵2012)と p.4(1878年に官款14項・190余万両で最高点)。二次の集計で、年度の区切りと「官款」の定義は原典に依ります。北村(1961)(R2)p.314 も王先謙が「官款190余万両」と記したことを伝えます。1891年の完済は R4 と Dick & Kentwell(R6)の記述によります。↩
- 狄金華・黄偉民(R5)が引く李鴻章の上奏(注25:『李鴻章全集』第32巻 pp.146–147。原文は未見)。西暦の時期は編集部の換算です。猶予の対象は利息で、元本の返済がどこまで猶予されたかは確認できていません。Dick & Kentwell(R6)は1880年までの返済猶予と記し、R4 の残高の推移とも整合します。↩
- 北村(1961)(R2)p.320(李鴻章・劉坤一側の反論の記述)、松浦(2017)(R3。『申報』1877年3月19日の記事を引用)。協定があったことは両資料で一致しますが、航路ごとの配分の比率や運賃の水準は、今回、学術資料で裏付けを得られませんでした。↩
- 北村(1961)(R2)pp.312–316。日付は旧暦で、劉坤一の上奏は光緒7年1月15日・3月3日、李鴻章は2月11日、総理衙門は4月14日です。本稿ではこれらの日付を西暦に換算していません。↩
- 北村(1961)(R2)pp.313–315。弾劾する側の主張の要約で、事実として確定したものではありません。↩
- 北村(1961)(R2)pp.316–320。北村は、調査に当たった劉瑞芬を南洋系、李興鋭を北洋系とし、調査報告も必ずしも正確ではないと述べています。↩
- 北村(1961)(R2)pp.319–321。北村も証拠は残されていないと認めており、本稿では金額や受け取った人物を記しません。↩
- 北村(1961)(R2)pp.321–322。北村は、徐潤が一度も問題にされなかったことや、弾劾の背景に北洋系を招商局から外す意図があった可能性を疑問点として挙げています。↩
- FRUS 1877, No.64(R1)p.90。報告は株主が200万両と積立金・残余財産を合わせ計240万両を受け取り、1株103両、市場価格より約56%高いと記します。2,400,000÷22,500=106.7両で、103両×22,500株=2,317,500両です(編集部の計算)。56%は103両と66両から導かれた数字とみられます。合計額・株数・転記のどこに誤りがあるかは特定できません。↩
参考文献(2 026年10月確認)
- R1 ”Mr. Seward to Mr. Fish”, Peking, January 30, 1877, No.64, in US Department of State, Papers Relating to the Foreign Relations of the United States, 1877(FRUS) history.state.gov (参照箇所:pp.88–91。売却の合意、対価と支払条件、海関の前貸し、旗昌の株式。脚注2・4〜7・17・26の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R2 北村敬直「招商局史の一局面:旗昌公司買収事件について」『東洋史研究』20巻3号、pp.302–324、1961年(DOI: 10.14989/148222) repository.kulib.kyoto-u.ac.jp (参照箇所:pp.302–322。買収費の二本立て、資産評価表、支払日程、官款・商股、弾劾と調査。脚注1・3・5・6・8〜11・13〜16・18・20〜25の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R3 松浦章「19世紀後半の旗昌輪船公司の長江・沿海航運」関西大学『東アジア文化交渉研究』(2017年) kansai-u.repo.nii.ac.jp (参照箇所:売却に関する記述(p.55付近)と注55〜57。契約日・222万両・16隻・運賃協定。脚注1・20の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R4 張玲玉「近代中国股份制公司的資本籌集——以輪船招商局為個案」『経貿法律評論』2022年第5期、pp.124–142 law.uibe.edu.cn (参照箇所:pp.3–5、表1・表2(年度別の官款残高、官款の利率)。脚注3・12・15・16・18の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R5 狄金華・黄偉民「組織依附、双辺預算約束軟化与清末輪船招商局的発展——基于輪船招商局与清政府関係的分析」(愛思想掲載版、2018年1月25日更新) aisixiang.com (参照箇所:李鴻章の1877年の上奏(利息の3年猶予)、官款の利率。脚注12・19の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R6 Howard Dick and Stephen Kentwell, “China Merchants S.N. Co. (1872): A Short History of the Company’s Shipowning”, oldchinaships.com(1988、2020年改訂) oldchinaships.com (参照箇所:1876〜1883年の段。脚注のない概説のため、他の資料と一致する点の補強にのみ使用。脚注3・4・9・18・19の根拠。閲覧日:2026年10月)
※本記事は教育目的の一般的な解説であり、投資助言ではありません。対価・支払条件・資金の数字は米国公使の報告(伝聞)と研究による記述で、契約書の原文は確認していません。旧暦の西暦換算は注記のないものは編集部によります。分割払いの現在価値は単純化した設例です。アイキャッチ画像は生成AIによるイメージで、実在の船舶・建物・人物を再現したものではありません。