想定読者:事業会社の経営企画・財務、株主対応を支援するFA・IR、エクイティ・アナリスト
前提知識:貸借対照表とキャッシュフロー計算書の基本、ネットキャッシュの考え方

ある株主から書簡が届く。現預金が時価総額の3割を超え、投資にも還元にも使われていない、自己株式取得で資本効率を上げるべきだ、という内容だ。経営企画の回答案には「不測の事態への備えと将来の成長投資のため」とある。どちらにも一理はあるが、株主は水準の大きさだけを示し、会社は使い道を抽象的に語っている。

回答を書く前に手元に置きたいのは過去の記録である。平時の貸借対照表では「備え」と「温存」を見分けられない。手がかりになるのは、借入が細った時期に、資金を厚く持っていた会社とそうでない会社がその後どう動いたかだ。日本の上場・非上場の有報提出企業を20年にわたって追い、この違いを統計で比べた研究がある。本稿はそれを読み、現預金の水準を株主にどう説明し、外からどう評価するかを考える。

この記事が主に参照する研究

服部正純(Masazumi Hattori)、藤谷涼佑(Ryosuke Fujitani)、中島上智(Jouchi Nakajima)、安田行宏(Yukihiro Yasuda)(2023)「わが国における企業現金保有の実体的効果(Real Effects of Corporate Cash Holdings: Evidence from Japan)」RIETI Discussion Paper Series 23-E-084

  • 公表:初版 2023年12月(経済産業研究所〈RIETI〉のディスカッション・ペーパー)。参照した版:同(英語、2023年12月)と日本語のノンテクニカルサマリー。査読:未査読(WP)。著者は一橋大学の研究者で、内容は著者の見解であり、RIETIの見解ではない1
  • データ:2000〜2019年に有価証券報告書を提出した日本企業(上場企業と、有報を提出する非上場企業。金融業を除く)。商用データベースの財務データ
  • 方法:基準年(2008年など)の前年の同業内での現金比率と、その後の固定資産・売上高の推移との関係を、統制変数つきの回帰(局所射影とパネル回帰)で推計。相関の分析で、因果の識別ではない
  • 位置づけ:英国の中小企業を対象にした先行研究の手法を、日本企業に当てはめた検証。危機後に限らず同様の関係が見られた点が英国の結果と異なる

現預金の​評価が​割れる​理由:予備的動機と​エージェンシー

企業が現金を厚く持つ理由について、研究は大きく二つの見方を積み重ねてきた2。一つは予備的動機で、外部からの資金調達に制約がある企業は、投資の機会が来たときや収入が途絶えたときに備えて現金を持つ。現金の運用利回りは低いので平時の収益性は下がるが、借りられない局面でも投資を続けられる。もう一つはエージェンシーコストの見方で、外部からの規律が弱い経営者は、余った資金を株主に返さず手元に残し、自分の裁量を広げる。こちらでは、厚い現金は価値を損なう投資や温存の兆候になる。

株主の書簡は後者に、会社の回答は前者に立っている。前者が当てはまるなら、現金の厚い企業は借入の難しい危機の後も投資を続けているはずで、研究はこの点を統計で確かめている。

なお、研究は現金÷総資産(または現金÷営業資産)を同じ業種の中で比べている。実務でよく使う手元​流動性比率(月商の何か月分か)や、事業に必要な現金と余剰現金の切り分けとは物差しが違う点に注意したい。

研究が​示した​結果:危機前の​現金の​差は、​5年かけて​投資の​差に​なった

研究の中心は、2008年(日本ではリーマン・ショックの年)を基準年に置いた分析である3。前年の現金÷総資産を日経の業種分類(32業種)の中で標準化し、同業より現金が多いか少ないかを測る。そのうえで、基準年から1〜8年後までの固定資産の増減との関係を、年ごとに推計する(局所射影と呼ぶ方法)。規模、負債比率、ROA、危機前の固定資産の伸び、社齢、業種を統制する。

結果は図1のとおりである。同業平均より現金が1標準偏差多い企業は、危機の1年後に固定資産が約2%多く、その差は年を追って広がり、5年後には約7%に達した。差が統計的に有意なのは1〜5年後で、現金÷総資産をそのまま使っても同じ形になった4。資産の種類で分けると、有形固定資産の差が先に(2010年から)現れ、無形固定資産の差は2014年まで有意でなく、2015年以降に出てきた5。

図1 危機前の現金の差とその後の差の現れ方図1 危機前の現金の差と、その後の差の現れ方基準年2008年。同業内で現金の多さを比べる2007危機前現金÷総資産を同じ業種の中で標準化(z値)して比べる2008基準年リーマン・ショックの年。ここからの固定資産の増減を追う20091年後固定資産が約2%多い(1標準偏差あたり)売上高÷総資産の差はマイナス20102年後有形固定資産で差が有意になる20113年後売上高÷総資産の差が有意にプラスへ(著者はシェア拡大と解釈)20135年後固定資産が約7%多い(固定資産の差が有意なのは5年後まで)20157年後無形固定資産でも差が出る(2014年までは有意でない)基準年を2001・2003・2013年に変えてもほぼ同じ形(危機後だけの現象ではない)論文は、英国の先行研究では2001年基準で有意な差がなかったと紹介している
出所:R1(RIETI DP 23-E-084, 2023年12月)​p.12〜13・​p.16〜18(図1〜5〈p.24〜28〉の​本文での​説明。​ページは PDF の​物理​ページ)を​基に​大手町​プレップ​作成。​論文の図​(係数の折れ線)は​写さず、​本文に​書かれた​結果だけを​年に​対応づけた。​係数は​固定資産の​対数差で、​「約2%」​「約7%」は​著者の​換算。​有意か​どうかは​90%信頼区間に​よる。​規模・​レバレッジ・​ROA・​危機前の​固定資産の​伸び・​社齢・​業種を​統制した​相関の​分析で、​現金が​投資を​生んだと​いう​因果を​証明した​ものではない。

差は売上側にも出た。売上高÷総資産の累積差は、危機の1年目には有意にマイナスだった。売上が落ちる中で現金の多い企業は資産を減らさなかったためと著者は推測している。その後は上向き、2011年以降は有意にプラスになった。著者はこれを、現金の多い企業が同業内で売上を伸ばし、シェアを広げた結果と解釈している6。

英国との違いも示された。論文の紹介によれば、手本にした英国の先行研究では現金と投資の関係は金融危機後に際立ち、2001年を基準年にすると有意な差が出なかった(同じ研究の2021年版は危機前にも1.1%ポイントの差を10%水準で報告しており、版で記述が異なる)。日本では、基準年を2001年・2003年・2013年に変えても2008年とほぼ同じ結果になった。著者は、日本企業が1990年代後半の国内の銀行危機で借入の難しさを経験し、それを機に現金を厚くしたため、その厚みの差が2000年以降の投資の差と結びついてきた可能性を指摘している7。ここは著者の解釈で、論文が検証したのは2000年以降の結果だけである。

銀行との関係で分けると意外な結果が出た。メインバンクがある企業群では1年目から現金と投資の関係が有意だったのに対し、メインバンクがない企業群では3年目までは有意でなく、その後に有意なプラスになった。銀行に頼れない企業ほど現金の意味が大きい、という直観とは逆で、著者自身もやや直観に反すると書いている。著者の推測は、メインバンクのある企業のうち現金の多い企業は、危機後に銀行からも迅速に借りられたというものだ8。

一方、毎年の現金と翌年の設備投資の関係を見たパネル回帰では、推定された関係は小さい。上場企業で、現金÷営業資産が10%ポイント高いと、翌年の設備投資÷営業資産は0.04%ポイント高い(係数0.0036、5%水準)。設備投資÷営業資産の平均は約18.1%なので、その約0.2%にあたる計算になる。この感応度は危機後にむしろ下がり(0.0064→0.0030)、非上場の提出会社を含めると逆に上がるなど、標本によって向きがそろわない9。表1に主な結果をまとめた。

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表1 研究が示した主な結果(日本の有報提出企業、2000〜2019年)
分析結果補足
危機後の固定資産(基準年2008、局所射影)1年後 約2%
5年後 約7%
同業平均より現金が1標準偏差多い企業の差。1〜5年後に有意。現金÷総資産そのものに替えても同じ形
資産の種類有形→無形有形は2010年から有意な差。無形は2014年まで有意な差を確認できず、2015年以降に有意な差
売上高÷総資産の累積差−から+へ1年目は有意にマイナス、2011年以降は有意にプラス(著者は市場シェア拡大と解釈)
基準年を2001・2003・2013年に変更ほぼ同じ危機後に限らない。論文の紹介では、英国の先行研究は2001年基準で有意な差なし
メインバンクの有無ありで早いありの群は1年目から有意。なしの群は3年目までは有意でなく、その後に有意なプラス
毎年の現金と翌年の設備投資(上場、パネル回帰)係数0.0036現金÷営業資産が10%ポイント高いと、設備投資÷営業資産が0.04%ポイント高い(5%水準)
危機の前後(同上)0.0064→0.0030危機後は低下。2009〜2011年の変化は有意でなく、2016〜2019年に低下(−0.0042)
非上場の有報提出会社を含む危機後に上昇合計投資の係数0.0023、危機後の交差項+0.0039。上昇は2012年以降
出所:R1(RIETI DP 23-E-084, 2023年12月)​p.13〜19、​表2〜4(p.32〜34。PDF の物理ページ)を​基に​大手町​プレップ​作成。​パネル回帰の​観測数は​上場66,678、​非上場を​含め80,210。​局所射影の​標本は​4,264(論文の表記)。​金融業を​除く。​いずれも​統制変​数つきの​相関の​分析で、​因果の​識別ではない。​研究は​未査読​(WP)。

危機前に同業より厚い現金を持っていたかどうかは数年後の固定資産の差と強い正の関係を示す一方、前年の現金比率と翌年の投資比率の推定上の関係は小さい。厚い現金が「借りにくい局面でも投資をやめずに済む余地」になっていたというのは一つの読み方で、論文はその仕組みまでは検証していない。

結果を​どこまで​信じて​よいか:研究の​対象と​限界

著者は危機を外から来たショックとみなし、危機直前の企業の状態を統制することで、現金と投資の関係から他の要因を取り除こうとしている。根拠の一つとして、現金の多い群(上位4分の1)と少ない群(下位4分の1)で、危機前2年の投資の伸びに有意な差が確認されない点を示す10。ただ、同じ表は、現金の多い群のほうが利益率が高く(総資産利益率5.4%対3.5%)、固定資産の比率が低い(31%対58%)ことも示している。収益力が高く投資機会に恵まれた企業が現金も多く持っていたなら、投資の差の一部はその質の差を映しているかもしれない。この研究は因果を証明したものではなく、統制変数つきの相関として読むべきである。

次に、研究が見ているのは投資の量と売上高÷総資産(シェア拡大は著者の解釈)で、その投資が資本コストを上回るリターンを生んだか、企業価値が高まったかは分析していない。標本は2019年までで、コロナ禍や、東京証券取引所が資本効率の改善を求め始めた2023年以降の環境は含まれない。著者も、1990年代への期間の延長は単体・連結の扱いが課題で今後の研究とする11。論文は査読前のディスカッション・ペーパーで、表の一部に誤植とみられる行ラベルもある。

関連研究も読み方を補う。研究が比較した英国の研究(中小企業が対象)では、危機前に同業より現金が多い企業(上位10%の位置)は2007〜2009年に固定資産を維持し、少ない企業(下位10%の位置)は4.7%減らした。2014年には前者が4.6%増、後者が6.6%減で、差は11.2%ポイントに広がった。同じ著者らは、現金の多い企業が最も生産性の高い企業とは限らないため、危機後の投資の差が資源の配分のゆがみを長引かせうると指摘している12。米国上場企業1,857社を対象に、コロナ禍の株価急落期(2020年2〜3月)を調べた研究では、現金÷総資産が1標準偏差高い企業の累積超過リターンは5.14%ポイント高かった。一方で、過去3年の株主還元をやめていたとしても、平均的な株式リターンの改善は2%ポイント未満だったと推計している13。市場は危機時の手元資金に価値を認めたが、還元を減らして積み増す効果が大きいとは限らない。

大手町​プレップの​考察:問うべきは​「水準」ではなく​「説明できる額」

以下は編集部の見方である。研究の結果は、厚い現金を一律に非効率とみる議論に対して、少なくとも日本の2000年代以降の企業では、危機の後の投資と結びついていた可能性を示す。著者らもノンテクニカルサマリーで、現金の蓄積を抑える施策が望ましい効果を持つかは深く考察すべきだと述べている14。ただし「現金は多いほど良い」と読むのは行き過ぎだ。結果は業種内での相対的な厚さについての平均的な関係で、個々の企業の保有額の適否を判定する物差しではない。

編集部は、現預金の評価を次の三つの問いに分けて考えるのが実務的だと考える(仮説)。第一に、危機の局面で必要になる額を、売上の落ち込みや返済の予定から計算して示せるか。第二に、危機でも続けたい投資が具体的に決まっていて、そのための現金だと言えるか。研究が示したのは危機前の現金の厚さとその後の固定資産の増加の正の関係で、それが投資の継続を支えた結果だとしても、使い道の決まっていない現金が危機の際に投資に変わる保証はない。第三に、その投資のリターンを後から確かめる仕組みがあるか。英国の研究が指摘したように、現金の多い企業が良い投資先を持っているとは限らない。

この三つで説明できる額と、説明できない額を分けると、株主との議論は水準の大小から、説明の過不足に移る。説明できない部分が大きければ還元や他の使い道を検討する理由になり、株主の求める還元額が必要額に食い込むなら、根拠を示して断ることもできる。メインバンクの結果は、日本では現金と銀行借入が代わりではなく補い合ってきた可能性も示しており(著者の推測に基づく編集部の仮説)、手元資金と与信枠を合わせて設計する視点が要る。

日本の​実務への​応用:東証の​要請と​「手元資金の適正水準」

日本ではこの論点がすでに開示と対話の課題だ。東京証券取引所は2023年3月に「資本コストや株価を意識した経営」をプライム・スタンダード市場の上場会社に要請し、2026年4月のアップデートでは、まず成長投資を検討し、手元資金の適正水準も踏まえ、余資があれば機動的に株主還元に振り向けるという検討の優先順位が重要だとした15。同じ資料は中長期の機関投資家の声として、「成長投資やリスクへの備えを理由に現預金を多く保有するものの、具体的な検証が行われていないケース」は評価できないという趣旨を紹介し、過剰な現預金を抱えていないかの点検を求めている16。手元資金の水準について、企業と投資家の認識に差があることも示されている17。開示の要請の全体像は資本コストや​株価を​意識した​経営の​開示要請を参照してほしい。

研究の結果と東証の要請は対立しない。研究は危機前の現金と危機後の固定資産の増加に正の関係を示し、東証の資料はその額の検証を求めている。立場ごとの使い方は次のとおり。

  • 経営企画・財務:必要手元資金を、決済に要る最低額と、危機のシナリオで足りなくなる額に分けて計算し、資本配分の方針と同じ資料で示す。グループ全体の目標水準の決め方はグループ​流動性​バッファー​方針が参考になる。
  • アクティビスト対応のFA:アクティビストの書簡に対し、保有額全体ではなく「説明できない額」に議論を絞る。説明できる部分は計算の前提を開示し、できない部分は使い道か還元の方針を示す。狙われやすい企業の財務的な特徴はアクティビストに​狙われやすい​日本企業の​特徴で整理した。
  • アナリスト:現金の多さを同業の中で比べ、過去の危機(2008年、2020年)に会社が投資を続けたか、売上高÷総資産が同業より伸びたかを確かめる。現金を企業価値から差し引くときの範囲はネットデット​完全​ガイドで扱っている。

学習用の​設例:乙社の​現預金を​三つの​シナリオで​分解する

学習用の設例(架空)

  • 乙社は架空の製造業。年間売上120,000百万円(月商10,000百万円)、現預金36,000百万円(総資産150,000百万円の24%、月商の3.6か月分)、有利子負債12,000百万円
  • 平常時の営業キャッシュフローは年12,000百万円。売上が減ると、減少額の30%だけ営業CFが減ると置く
  • 日々の決済に必要な最低額は月商1か月分の10,000百万円
  • 12か月の支出:維持投資5,000・成長投資6,000・約定返済3,000・配当2,400(計16,400百万円)
  • 未使用のコミットメントライン(与信枠)8,000百万円。危機中の新規借入はこの枠だけとする

株主は「ネットキャッシュ24,000百万円は多すぎる」と主張している。乙社が答えるべきなのは、この現預金のうちどれだけを危機への備えとして説明できるかだ。12か月のストレステストとして、必要額を「最低決済資金+(支出−営業CF)」で計算する。売上が30%減ると、売上は36,000百万円減り、営業CFは10,800百万円減って1,200百万円になる。支出16,400百万円との差15,200百万円に最低決済資金を足すと、必要額は25,200百万円である。

図2 設例 危機シナリオ別の必要手元資金と保有額図2 設例:乙社の現預金はどこまで説明できるか乙社(架空):売上120,000・現預金36,000(百万円)12か月の危機に備えて必要な額(百万円)010,00020,00030,00040,000平常14,400枠を使えば10,000売上15%減19,800枠を使えば11,800売上30%減25,200枠を使えば17,200保有 36,000最低決済資金(月商1か月分 10,000)危機の12か月で足りなくなる額与信枠8,000を使える場合の必要額現預金の保有額売上30%減でも保有の30%(10,800)はこの計算だけでは説明できない
出所:学習用の​仮定に​基づき大手町​プレップ作成​(乙社は架空、単位は百万円)。​必要額=最低決済資金10,000+max(0, 支出−営業CF)。​支出は​維持投資5,000・​成長投資6,000・​約定返済3,000・​配当2,400の​計16,400。​営業CFは​平常12,000から、​売上の​減少額×30%だけ​減ると​置いた。​危機中の​新規借入は​与信枠​(コミットメントライン)だけとし、​枠の​契約条件​(財務制限条項など)で​使えなくなる​可能性は​考慮していない。​論文の​推計値は​使っていない。

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表2 設例:乙社の必要手元資金(12か月のストレステスト)
項目(百万円)平常売上15%減売上30%減
営業キャッシュフロー12,0006,6001,200
支出(維持・成長投資、返済、配当)16,40016,40016,400
足りなくなる額(支出−営業CF)4,4009,80015,200
+最低決済資金10,00010,00010,000
必要な手元資金14,40019,80025,200
保有額で説明できない額21,60016,20010,800
参考:与信枠8,000を使える場合の必要額10,00011,80017,200
参考:成長投資を止める場合の必要額10,00013,80019,200
出所:学習用の​仮定に​基づき大手町​プレップ作成​(乙社は架空)。​乙社の​現預金36,000、​総資産150,000、​有利子負債12,000(ネットキャッシュ24,000)、​月商10,000。​営業CFは​平常12,000から​売上の​減少額×30%だけ​減ると​置いた​(売上30%減なら​売上36,000減→営業​CF10,800減)。​期間は​12か月。​危機が​2年続く、​取引先の​支払いが​遅れる、​為替で​輸入代金が​増える、と​いった​追加の​想定は​含めていない。

図2と表2から三つのことが読み取れる。まず、売上30%減という厳しい想定で成長投資も続ける前提でも、現預金の30%にあたる10,800百万円は、この計算だけでは説明できない。説明するには、危機が2年続く想定、大型投資の予定、取引先の支払いの遅れなど、別の根拠が要る。次に、与信枠を使えるなら売上30%減でも必要額は17,200百万円にとどまり、説明できない額はさらに増える。手元資金と与信枠は合わせて設計し、枠の契約条件(財務制限条項に触れると使えなくなるおそれ)まで確かめておく必要がある。最後に、成長投資を止める前提にすると必要額は19,200百万円まで下がる。研究では危機前の現金が厚い企業ほど危機後の固定資産の増加が大きかったことを踏まえると、成長投資の6,000百万円を必要額に含めるかどうかは、乙社が危機時に何を優先するかという経営判断そのものである。

設例は営業CFの落ち方を単純化しており、実際には運転資本の動きや固定費の削減余地で必要額は大きく変わる。数字そのものより、内訳と、どの前提で結論が変わるかを株主と共有することに意味がある。

明日から​使える​確認項目

  1. 現預金を「最低決済資金」「危機シナリオで足りなくなる額」「使い道の決まった投資の資金」「説明できない額」の四つに分けた表を作る。最後の行がゼロでない理由を一文で書けるか確かめる
  2. 危機シナリオは売上の減少率を2〜3通り置き、営業CFの減り方(限界利益率)、約定返済、止められない維持投資を明記する。期間(12か月か24か月か)も書く
  3. 与信枠の未使用額と契約条件を確認し、危機時に使える前提を置くかどうかを決める。メインバンクとの関係が危機時の借入にどう効くかも書き添える
  4. 同業他社と、現金÷総資産と手元流動性(月商の何か月分か)の両方で比べる。研究のように業種の中で比べ、業種をまたいだ比較はしない
  5. 過去の危機(2008〜2009年、2020年)に自社や対象会社が設備投資を続けたか、その後に売上高÷総資産が同業より伸びたかを有価証券報告書で確かめる
  6. 危機時に続けた投資のリターンを後から確かめる。ROIIC​(増分投下資本利益率)などで、追加の投資が資本コストを上回ったかを見る。現金が投資を支えても、その投資が価値を生んだとは限らない
  7. 株主との対話では「保有額は多いか」ではなく「この内訳のどこに異論があるか」を聞き、要求額に届くにはどの前提を外す必要があるかを示してもらう

よく​ある​質問

この​研究から​「現預金は総資産の何%が適正」と​言えますか。

言えません。​研究は​同じ​業種の​中で​現金が​相対的に​多いか​少ないかと、​その後の​投資の​関係を​平均的に​見た​もので、​適正な​水準は​示していません。​適正額は、​各社の​事業の​リスクと​支出の​予定から​積み上げて​計算する​必要が​あります。

危機後に​投資を​増やせたのなら、​厚い​現金は​株主に​とっても​良かったのですか。

この​研究からは​分かりません。​論文が​見たのは​投資の​量と​売上高÷総資産で、​投資の​リターンや​株価は​分析していません。​米国の​研究では​危機時に​現金の​多い​企業の​株価の​下落が​小さかったと​いう​結果が​ありますが、​日本の​企業価値への​影響は​別の​検証が​必要です。

まとめ

2000〜2019年の日本の有報提出企業では、同業より現金を厚く持っていた企業ほど、2008年の危機後に固定資産を多く積み増し、数年後には売上高÷総資産も同業を上回った。この関係は危機後に限らず2000年以降の各時点でみられたが、統制変数つきの相関の分析であり、投資が価値を生んだかは検証されていない。現預金の評価は、水準の大小を争うよりも、危機時の必要額と続けたい投資から「説明できる額」を計算し、残りの扱いを示すほうが、株主との議論を前に進める。

脚注

  1. R1(RIETI DP 版, 2023年12月)p.1〜2(表紙・要旨と注記)、RIETI の論文掲載ページ(日本語:発行日 2023年12月・23-E-084、執筆者の漢字表記と所属)。見解が著者個人のもので所属組織・RIETI のものではない旨は R1 p.2 と掲載ページに明記。学術誌への掲載は、Crossref の題名・著者検索(2026年10月)では見当たらなかった。本記事の R1 のページは PDF の物理ページ番号(表紙を p.1 とする。論文に印刷されたページ番号+1。以下同じ)。↩
  2. R1(RIETI DP 版, 2023年12月)p.6〜7(2節)。予備的動機の実証例として Opler et al.(1999)・Almeida et al.(2004)など、エージェンシーの見方として Jensen and Meckling(1976)、国際比較の Dittmar et al.(2003)などを紹介し、実証結果は一致していないとする。↩
  3. R1 p.9〜13(3節・4.2節)。データは QUICK Astra Manager、金融業(日経中分類47〜52)と12か月でない決算期を除く(p.9〜10)。局所射影は Jordà(2005)の方法で、Joseph et al.(2022)に倣う。統制変数は総資産の対数、負債÷総資産、ROA、2006→07年・07→08年の固定資産の変化、社齢ダミー、業種ダミー(p.12)。↩
  4. R1 p.16(5.2節)・図1(p.24)・図2(p.25)。係数は固定資産の対数差で1年目0.02、5年目0.07。「約2%」「約7%」は著者の換算。有意性は90%信頼区間による。↩
  5. R1 p.16(5.2節)・図3(p.26)。無形固定資産は2014年まで有意な差が確認されないという結果で、差が存在しないことを示したものではない。↩
  6. R1 p.16〜17(5.2節)・図4(p.27)。売上高÷総資産の基準年2008年からの累積差。市場シェアの拡大は著者の解釈で、シェアそのものは測っていない。↩
  7. R1 p.17〜18(5.2節)・図5(p.28)、p.19(7節)。英国の研究(Joseph et al., 2022)の結果は R1 の記述(p.4・p.17)による。R2(2021年版)p.19 は、危機前の期間(2001年起点)の差を1.1%ポイント(10%水準)と報告しており、R1 の紹介とは版・仕様が異なる可能性がある。銀行危機の経験による説明は著者の推測で、1990年代のデータでは検証していない。↩
  8. R1 p.18〜19(6節)・図6(p.29)・図7(p.30)。メインバンクの有無は日経 Cges(企業統治に関する調査データ)の項目で判定。メインバンクのない企業群は3年目までは有意でなく、その後に有意なプラス。差は主に有形固定資産による。↩
  9. R1 p.13〜16(5.1節)、表1パネルB(p.31)、表2(p.32)、表3(p.33)、表4(p.34)。観測数は上場66,678、非上場の提出会社を含め80,210。現金は現金+短期有価証券、営業資産は有形+無形固定資産。平均に対する比率は編集部の計算(10%ポイントあたりの差÷設備投資÷営業資産の平均0.1805)。表3では2009〜2011年の交差項は有意でなく、2016〜2019年が−0.0042(5%水準)。表4では危機後の交差項+0.0039(5%水準)で、上昇は2012年以降(p.15〜16)。↩
  10. R1 p.3(1節)、p.13(4.2節)、表5(p.35)。表5は2007年の平均。現金÷総資産は上位群38%、下位群8%。危機前2年の投資の伸びは−0.021と−0.023で、差は10%水準で有意でない。総資産の金額(百万円)は本稿の論点に用いないため載せていない。↩
  11. R1 p.19〜20(7節)。単体・連結の基準の一貫性(連結は2000年から義務)に注意が要り今後の課題とする記述は p.19 末尾から p.20 にかけて。表4(p.34)の行ラベル「cash×1(2006-2019)」は本文の区分(2016〜2019年)と合わず、誤植とみられる(未確認)。↩
  12. R2(CESifo WP 版, 2021年4月)p.3(要旨)、p.4(序論)、p.6、p.17(5節)。対象は英国の中小企業で、90パーセンタイルと10パーセンタイルの企業の比較。危機前の期間(2001年起点)の差は1.1%ポイント(10%水準、p.19)。学術誌版(Review of Finance, 2026)は未読。↩
  13. R3(NBER WP 版, 2020年5月・6月改訂)p.2(要旨)、p.4、p.17(3節)、p.22、p.27。急落期は2020年2月3日〜3月23日。財務柔軟性(現金が多く、短期・長期の負債が少ない)の高い企業と低い企業の差は9.7%ポイントで、下落幅は26%小さかった。「2%ポイント未満」は p.4(平均的な株式リターンの改善が2%未満)と要旨 p.2(還元がなければ株価の下落が2%ポイント小さかった)による。↩
  14. R4(RIETI ノンテクニカルサマリー)。このサマリーは政策的含意を中心に記述したもので、DP の一部ではないとページに明記されている。↩
  15. R5(東京証券取引所, 2023年3月31日)、R6(東京証券取引所上場部, 2026年4月28日)p.2・p.5(対応のポイント②)。要請の対象はプライム市場・スタンダード市場の全上場会社(R5 掲載ページ)。↩
  16. R6 p.6(対応のポイント③の「中長期目線の機関投資家のコメント」と「期待される取組み」)。引用は同ページの記述から。↩
  17. R6 p.17。三井住友信託銀行と生命保険協会の調査を基に東証が作成した資料で、企業と投資家の手元資金の水準の認識を比べている。↩

参考文献​(2026年10月確認)

※本記事は教育目的の一般的な解説であり、投資助言・法務・税務の助言ではありません。研究結果は各論文の対象・期間・方法の範囲で得られたもので、日本の個別企業・案件にそのまま当てはまるとは限りません。設例は学習用の架空の数値です。アイキャッチ画像は生成AIによるイメージです。