この記事で分かること
- TSM(自己株式方式)が「希薄化後株式数」をどう算出するかの計算式
- アウト・オブ・ザ・マネーのオプションを含めてはいけない理由
- 整数設例による払込金額・買戻し株式数・純増加株式数の検算
- 比較会社分析・M&Aモデルでの使い方と日本の開示(潜在株式調整後EPS)との関係
30秒で分かる定義
自己株式方式(TSM、Treasury Stock Method、読み方:ティーエスエム)とは、ストックオプションや新株予約権が行使された場合に、その行使代金を使って発行体が自社株を市場価格で買い戻すと仮定し、純粋な増加株式数(希薄化影響)を算出する手法です。行使によって新たに発行される株式数から、行使代金で買い戻せる株式数を差し引いた分だけが、実質的な希薄化として基本株式数に加算されます。比較会社分析や類似会社比較法、M&Aモデルの1株当たり価値・EPS計算で使う「希薄化後株式数(フルダイリューション株式数)」の標準的な算定方法です。
なぜ実務で重要なのか
投資銀行・PEでは、比較会社分析(コンプス)や類似取引比較法で企業価値から株主価値、1株当たり価値を出す際に、希薄化後株式数の分母が正しくないと株価評価そのものが歪みます。M&Aモデルでは、買収対象・買収主体双方の希薄化後株式数がEPSアクリーション・ダイリューション分析の前提になります。FAS・バリュエーションの現場では、対象会社のストックオプション残高一覧(行使価格帯別)を精査してTSMを適用し、フルダイリューション時価総額を算出します。株式報酬制度が拡大している近年、上場企業の分析でTSMの適用漏れは評価誤差に直結します。希薄化後株式数は財務モデリング完全ガイドで扱う3表連動モデルとは別に、比較会社分析シートの中で個別に計算するのが実務上の位置付けです。
計算式(または仕組み)
買い戻せる株式数 =(行使価格 × 対象オプション株式数)÷ 現在の株価
この計算は行使価格が現在の株価を下回っているオプション(イン・ザ・マネー)のみに適用します。行使価格が株価を上回るオプション(アウト・オブ・ザ・マネー)は、保有者が行使する経済合理性がないため希薄化効果はゼロとして除外します。会計上の潜在株式調整後EPSでは現在株価の代わりに期中平均株価を使うのが原則ですが、M&A・バリュエーションの実務では算定基準日時点の株価を使うことが一般的です。
整数設例で確認する
設例(架空数値):基本株式数100百万株、ストックオプション5百万株(行使価格800円、すべてイン・ザ・マネー)、現在の株価1,000円とします。
- 行使による払込金額 = 5,000,000株 × 800円 = 4,000,000,000円(40億円)
- 買い戻せる株式数 = 4,000,000,000円 ÷ 1,000円 = 4,000,000株(4百万株)
- 純増加株式数 = 5百万株 − 4百万株 = 1百万株
- 希薄化後株式数 = 100百万株 + 1百万株 = 101百万株
もし行使価格が1,200円(現在株価1,000円を上回る=アウト・オブ・ザ・マネー)だった場合は、このオプションはTSMの計算に含めず、希薄化後株式数は基本株式数の100百万株のまま据え置きます。行使価格と株価の大小関係を毎回確認することが、この手法の急所です。
投資判断への影響
希薄化後株式数は「企業価値 − 純有利子負債=株主価値」を株数で割って1株当たり価値を求める最終段階の分母になります。分母を過小に見積もる(希薄化を無視する)と1株当たり価値は過大評価され、逆に行使見込みのないアウト・オブ・ザ・マネーのオプションまで加算すると過小評価になります。M&Aの買収提案では、対象会社の潜在株式をすべて洗い出したうえでTSMを適用した「完全希薄化ベースの株式数」に基づいて買収総額を算定するのが標準的な実務です。
財務モデル・Excelでの使い方
比較会社分析シートやM&Aモデルの株式数ブロックでは、行使価格帯(トランシェ)ごとに行を分けて設計します。
- 行ごとに「対象オプション株式数」「行使価格」「現在株価」を置き、
=IF(現在株価>行使価格, オプション株式数, 0)でイン・ザ・マネーの株式数のみ抽出 - 買戻し株式数は
=IF(現在株価>行使価格, オプション株式数*行使価格/現在株価, 0) - 純増加株式数(各トランシェの合計)を基本株式数に加算し、チェック行で「基本株式数 ≦ 希薄化後株式数」を検証
転換社債・転換優先株の希薄化計算にはTSMではなく「if-converted法」(転換後の株式数を単純加算し、支払利息・優先配当を税引後で純利益に戻し入れる方法)を使う点が異なります。両者を混同しないことが実装上のポイントです。算出した希薄化後株式数は、ピッチブックとは何かで紹介する比較会社分析スライドの1株当たり価値欄にそのまま使われます。
実務家が確認するポイントとよくある誤解
誤解1:「オプション残高は全部一律に希薄化株式数へ加算する」→ 正しくは、行使価格が現在株価を上回るアウト・オブ・ザ・マネーの分は加算しません。行使価格帯ごとに現在株価と比較する作業が必須です。
誤解2:「TSMは転換社債にも同じロジックで使える」→ 正しくは、転換社債・転換優先株はif-converted法という別の手法を使います。払込を伴う権利(SO・ワラント)と、転換により新株が発行される証券(転換社債)は算定ロジックが異なります。
実務家はさらに、現在株価に「算定基準日の終値」を使うのか「直近一定期間の平均株価」を使うのかを案件の目的(会計上のEPSか、M&Aバリュエーションか)に応じて確認します。
日本実務での扱い(2026年8月時点)
日本基準では、企業会計基準委員会(ASBJ)が定める「1株当たり当期純利益に関する会計基準」に基づき、有価証券報告書のEPS注記で「潜在株式調整後1株当たり当期純利益」が開示されます。ストックオプションによる潜在株式の調整は、TSMと同じ考え方(行使代金相当額で自社株を買い戻すと仮定し、期中平均株価を基準に希薄化影響を算定)で行われます。IFRSでも同様の考え方(IAS第33号「1株当たり利益」)が採られており、算定の枠組みは日本基準と大きく変わりません。M&Aバリュエーションの実務では、対象会社の有報・株主総会招集通知にあるストックオプション制度の概要(行使価格・行使期間・残存個数)を必ず確認し、TSMの前提データとして使います。
面接・モデルテストで問われるポイント
Q:TSMでアウト・オブ・ザ・マネーのオプションを希薄化計算に含めない理由を説明してください。
「TSMは、オプション保有者が実際に行使して利益を得られる状況を前提にした計算だからです。行使価格が現在の株価より高いオプションは、行使すると損をするため合理的な保有者は行使しません。したがって経済的な希薄化効果は発生せず、計算に含めると株式数を過大に見積もり、1株当たり価値を不当に引き下げてしまいます。」
深掘りでは「if-converted法との違い」「現在株価に何を使うべきか(算定基準日の終値か期中平均か)」が定番の追加質問です。
よくある質問(FAQ)
Q. ワラント(新株予約権)にもTSMは使えますか?
A. 使えます。新株予約権も行使代金の払い込みを伴う権利であるため、ストックオプションと同じTSMのロジック(行使代金で自社株を買い戻すと仮定する)で希薄化後株式数を算出します。
Q. 現在株価が算定期間中に大きく変動した場合はどうしますか?
A. 会計上の潜在株式調整後EPSでは期中平均株価を使うのが原則です。一方、M&Aバリュエーションでは算定基準日時点の株価を使うことが多く、目的に応じて基準となる株価を使い分ける必要があります。
出典・参考(2026-08確認)
- 企業会計基準委員会(ASBJ)「1株当たり当期純利益に関する会計基準」 https://www.asb-j.jp/
- EDINET(有価証券報告書のEPS注記・潜在株式に関する開示) https://disclosure2.edinet-fsa.go.jp/
- IFRS Foundation(IAS第33号「1株当たり利益」の考え方) https://www.ifrs.org/
※本記事は教育目的の一般的な解説であり、法務・税務・投資助言ではありません。設例は理解のための架空数値です。