この記事で分かること
- フルラチェット方式が「調達額を無視する」ことの意味
- 加重平均方式と比べて創業者持分がどれだけ変わるかの整数設例
- なぜ実務の標準になっていないのか、どんな場面で使われるのか
- 日本の種類株式でどう規定されるかと交渉上の対処法(2026年7月時点)
30秒で分かる定義
フルラチェット方式(Full Ratchet、完全ラチェット、読み方:ふるらちぇっとほうしき)とは、希薄化防止条項の調整方式のひとつで、ダウンラウンドが起きた際に既存優先株の転換価額を、新株の発行価額と同じ水準まで一律に引き下げるものです。ラチェット(爪車)という名のとおり、価格が下がる方向にだけ作動し、戻ることはありません。新規調達額の大小をまったく考慮しないため、わずかな金額の低価額発行でも、既存優先株全体の転換価額が一気に下がるという点が最大の特徴であり、投資家に最も有利な方式です。
なぜ実務で重要なのか
タームシートでこの一語が入っているかどうかで、将来の持分構造が大きく変わります。
- 創業者:受け入れると、ダウンラウンド時の希薄化を一身に引き受けることになります。交渉で最優先に加重平均方式への変更を求めるべき条項です。
- 投資家:価格下落リスクへの最も強い保険です。ただし創業者のインセンティブを著しく損なうと事業の継続性が危うくなるため、要求するかは戦略的な判断になります。
- 次ラウンドの投資家:既存にフルラチェットがあると、ダウンラウンド実行時に既存優先株の株式数が大きく増え、自分の想定持分が確保できなくなります。タームシートのレビューで最初に確認する項目です。
仕組み:加重平均との構造的な違い
【加重平均】調整後転換価額 = 調整前転換価額 ×(発行済株式数 + 新規調達額÷調整前転換価額)÷(発行済株式数 + 新規発行株式数)
2つの式を見比べると、決定的な違いが分かります。フルラチェットの式には調達額も株式数も登場しません。新株の発行価額という1つの変数だけで調整後の転換価額が決まります。
この設計は極端な結果を生みます。仮に1株だけを低い価額で発行しても、フルラチェットは既存優先株の転換価額をその価額まで引き下げます。加重平均方式なら「新規発行株式数が既存株式数に比べて極小だから調整もほぼゼロ」となり、経済実態と整合します。
このため、フルラチェットを採用する場合には適用の下限を設ける緩和策が併用されることがあります。典型的には、①一定金額以上の調達にのみ適用する、②最初の1回のダウンラウンドにのみ適用する、③投資後一定期間に限り適用する、といった限定です。
整数設例で確認する
設例(架空数値)。前提を整理します。
- 創業者の普通株:600,000株
- シリーズA:投資家が転換価額2,000円で150,000株分(投資額3億円)を取得済み
- 調整前の発行済株式総数(転換後ベース):750,000株
- 今回のダウンラウンド:1株1,000円で100,000株を発行(調達額1億円)
①調整なし:総株式数 = 600,000 + 150,000 + 100,000 = 850,000株。創業者持分 = 70.6%。
②加重平均方式(ブロードベース)
調整後転換価額 = 2,000 ×(750,000 + 100,000,000÷2,000)÷(750,000 + 100,000)= 2,000 × 800,000 ÷ 850,000 = 約1,882円。転換後株式数 = 300,000,000 ÷ 1,882 = 約159,375株(+9,375株)。総株式数859,375株、創業者持分 = 69.8%。
③フルラチェット方式
調整後転換価額 = 1,000円。転換後株式数 = 300,000,000 ÷ 1,000 = 300,000株(+150,000株)。総株式数1,000,000株、創業者持分 = 60.0%。
| 方式 | 調整後転換価額 | シリーズAの株式数 | 総株式数 | 創業者持分 | シリーズA持分 |
|---|---|---|---|---|---|
| ①調整なし | 2,000円 | 150,000 | 850,000 | 70.6% | 17.6% |
| ②加重平均(ブロード) | 約1,882円 | 約159,375 | 859,375 | 69.8% | 18.5% |
| ③フルラチェット | 1,000円 | 300,000 | 1,000,000 | 60.0% | 30.0% |
創業者持分の差は、②と③で 9.8%ポイント。シリーズA投資家の持分は18.5%から30.0%へ11.5%ポイント増えています。会社に入った資金は1億円で同じなのに、条項の文言ひとつでこれだけの持分が移転します。
さらに極端な例を計算します。発行株式数を1,000株(調達額100万円)にした場合、加重平均では調整後転換価額 = 2,000 ×(750,000 + 500)÷(750,000 + 1,000)= 約1,998.7円とほとんど動かず、シリーズAの株式数の増加はわずか98株です。一方フルラチェットでは、調達額が100万円であっても転換価額は1,000円まで下がり、株式数は300,000株と150,000株も増えます。100万円の調達で150,000株分の持分が創業者から投資家へ移転する——この非対称性が、実務標準になっていない最大の理由です。
契約条項への影響
フルラチェットが提示された場合の交渉戦略は、段階的に整理できます。
第一段階:加重平均への変更を求める。最も望ましい着地です。「実務標準は加重平均のブロードベースである」という事実を根拠に交渉します。
第二段階:適用範囲を限定する。フルラチェットを維持する代わりに、①適用期間の限定、②適用回数の限定(最初の1回のみ)、③発行額の下限、④カーブアウトの拡充(SO発行、M&A対価、提携先への発行を除外)を求めます。
第三段階:他の条項とのバーターにする。清算優先権を1倍・非参加型に抑える、取締役会の構成で譲歩を得る、といった交換条件を設定します。
また、ペイ・トゥ・プレイ条項との組み合わせは創業者側の重要な防御手段です。フルラチェットの恩恵を受けるには次ラウンドでも按分出資しなければならない設計にすれば、投資家は追加支援なしに保険だけを享受できなくなります。
創業者のインセンティブという観点も説得材料になります。持分が過度に希薄化した創業者が経営意欲を失えば、企業価値そのものが毀損し、投資家の回収額も減ります。投資家の合理的な利益は、条項の厳しさの最大化ではなく企業価値の最大化にあるという論理は、交渉の場で有効です。
財務モデル・Excelでの使い方
キャップテーブル上で、方式を切り替えて比較できる構造にすることが要点です。
- 方式スイッチ(1=加重平均ブロード、2=加重平均ナロー、3=フルラチェット)を作り、
CHOOSEまたはIFで調整後転換価額を切り替える - フルラチェットの数式は単純に
=新株発行価額。ただし、調整後転換価額は調整前を上回らないという制約を=MIN(調整前転換価額, 新株発行価額)で表現する。ラチェットは下方向にしか作動しない - 適用制限がある場合は条件式を重ねる。例:
=IF(AND(経過月数<=18, 調達額>=下限), フルラチェット調整, 調整なし) - 3方式の創業者持分を並べた比較表を必ず作る。交渉の場では、この表が最も説得力を持つ資料になる
調整計算の基礎は希薄化防止条項と共通です。実装の全体像はキャップテーブルと希薄化で扱っています。
この用語をExcelで「組める」状態にする
フルラチェットと加重平均を切り替えて創業者持分の差を即座に比較できる調整シートを作り、交渉資料として使える形に仕上げられるようになる。
実務家が確認するポイントとよくある誤解
誤解1:「フルラチェットは投資家が損を取り戻す仕組み」→ 正しくは、持分比率を回復させるだけで、投資額が戻るわけではありません。企業価値が下がっている以上、保有株式の価値は減っています。移転しているのは創業者からの持分であって、失われた価値ではありません。
確認ポイントは、①適用期間・回数の制限、②発行額の下限、③カーブアウトの範囲、④ペイ・トゥ・プレイとの連動、⑤複数シリーズがある場合に各シリーズが独立に調整されるか、の5点です。
日本実務での扱い
(2026年7月時点)日本では、優先株式は会社法108条に定める種類株式として発行され、希薄化防止条項は取得請求権の内容として定款に規定されるのが一般的です。具体的には、優先株式1株の取得と引換えに交付される普通株式の数の算定方法として、転換価額の調整式を定款に記載します。フルラチェット方式を採る場合、「新株発行価額をもって調整後転換価額とする」旨を明記することになります。
日本の実務では、経済産業省等が公表してきた投資契約・種類株式のモデル文書において加重平均方式が標準として示されており、フルラチェットが一般的に受け入れられているわけではありません。用いられるのは、①シード期で価格の不確実性が極めて高い場合、②業績不振企業への救済的な投資、③投資家の交渉力が圧倒的に強い局面、といった限定的な場面です。
面接・モデルテストで問われるポイント
Q:フルラチェットが実務標準になっていない理由を説明してください。
「調達額の大小をまったく考慮しないため、経済実態と乖離した結果を生むからです。極端な例では、100万円というごく小規模な低価額発行でも、既存優先株全体の転換価額が新株の発行価額まで一律に下がり、大量の株式が追加交付されます。加重平均方式なら、新規発行が既存株式数に比べて小さければ調整もわずかで済みます。加えて、創業者の持分が過度に希薄化するとインセンティブが失われ、企業価値そのものが毀損して投資家の回収額も減ります。投資家にとっても合理的とは限らないため、標準は加重平均のブロードベースになっています。」
よくある質問(FAQ)
Q. フルラチェットは投資家にとって常に有利ですか?
A. その投資家個人の持分という意味では有利ですが、必ずしも経済的に最善とは限りません。創業者の持分が大きく減れば経営意欲が低下し、次ラウンドの投資家が条項の存在を嫌って投資を見送れば資金調達自体が困難になります。結果として企業価値が下がれば投資家の回収額も減るため、条項の厳しさと投資リターンは必ずしも比例しません。
Q. 一度発動したフルラチェットは、その後アップラウンドが起きたら戻りますか?
A. 戻りません。ラチェット(爪車)という名称が示すとおり、下方向にのみ作動する一方通行の仕組みです。一度下がった転換価額は、その後の企業価値の回復にかかわらず維持されます。
出典・参考(2026-07-21確認)
- e-Gov法令検索「会社法」(第108条 種類株式、第199条 募集株式の発行) https://elaws.e-gov.go.jp/
- 経済産業省(スタートアップの投資契約・種類株式に関するモデル文書と解説) https://www.meti.go.jp/
- 法務省(会社法・登記実務に関する資料) https://www.moj.go.jp/
※本記事は教育目的の一般的な解説であり、法務・税務・投資助言ではありません。設例は理解のための架空数値です。