この記事で分かること
- Section 338(h)(10)選択が「株式取得を税務上は資産取得とみなす」制度である理由
- 資産の税務簿価ステップアップが買い手にもたらす税メリットの計算
- 売り手の追加税負担(グロスアップ)との綱引きを整数設例で確認
- 日本の組織再編税制・資産調整勘定との構造的な違い(2026年8月時点)
30秒で分かる定義
Section 338(h)(10)選択(読み方:セクション338エイチテン選択)とは、米国税制上、株式取得という法形式の取引を、税務上は対象会社の資産を取得したものとみなして扱うことを、買い手と売り手が共同で選択する制度です。これにより買い手は、対象会社が保有する資産の税務簿価(tax basis)を取得価額まで引き上げ(ステップアップ)、その後の償却を通じて税負担を軽減できます。買い手が単独で行える(g)選択もありますが、実務での使用場面は限られます。
なぜ実務で重要なのか
投資銀行・PEファンドにとってはディールの経済性を左右する変数です。米国のミドルマーケット案件では、買い手がステップアップの価値を織り込んで価格を提示し、売り手が追加税負担の補填(グロスアップ)を求める交渉が定型化しています。FAS・税務アドバイザーは、税メリットの現在価値と売り手の追加負担を試算して選択の損益分岐点を出します。日本企業の海外M&A担当にとっては、「買収しても税務上は何も変わらない」という日本の常識のまま臨むと価格の妥当性を判断できなくなる、という意味で重要です。
仕組み:株式取得を資産取得とみなすとは
通常の株式取得では、対象会社は法人格を維持したまま株主が入れ替わるだけなので、資産の税務簿価は買収前の金額のまま引き継がれます。買収価格に含まれていた含み益やのれん相当額は、税務上どこにも現れません。選択を行うと「対象会社が資産を時価で売却し、新しい対象会社が買い直した」ものとみなされ、買収価額が各資産に配分されて税務簿価が引き上げられます。配分しきれない残余は税務上ののれんを含む無形資産として扱われます。
米国税務上、取得により生じた無形資産(税務上ののれんを含む)は15年にわたる定額償却の対象とされるのが一般的な整理です(要件・区分は米国内国歳入法典の規定によります。2026年8月時点)。この「償却できるのれん」が日本の感覚との最大の違いです。
年間の税メリット =(ステップアップ額 ÷ 償却年数)× 税率
整数設例で確認する
設例(架空数値・単位は百万円)。資産に配分される取得価額1,000、従前の税務簿価合計400、償却年数15年(定額)、買い手の税率は連邦・州を合わせて25%、割引率8%と仮定します。
検算します。1,000 − 400 = 600、600 ÷ 15 = 40、40 × 0.25 = 10、15年合計 10 × 15 = 150 は 600 × 0.25 = 150 と一致します。現在価値は 10 × 8.56 = 85.6、約86です。売り手の追加負担を70とすれば差額16を交渉で分け合う余地が生まれ、逆に要求が100なら 86 − 100 = −14 で選択しないほうが合理的です。338(h)(10)選択は「買い手が得をする制度」ではなく、買い手のメリットと売り手のコストの差額を配分する制度だという点が要点です。
契約条項への影響
選択は共同行為であるため、最終契約(SPA)に次の条項が置かれます。
- 取得価額の配分の合意:配分は償却年数に直結するため配分表を別紙で合意します。税務上の配分と会計上ののれんとPPAの配分は目的も金額も一致しない点に注意が必要です
財務モデル・Excelでの使い方
- 税メリット行:各年の追加償却 × 税率を算出しFCFに加算します。会計上の損益は動かさず税金計算の行だけを動かすのがポイントで、この会計と税務の差は繰延税金の論点になります
- シナリオ切替と感応度分析:「選択あり/なし」をフラグで切り替えて価格・IRRの差を比較し、税率と割引率を2軸にしたテーブルで売り手のグロスアップ要求と突き合わせます。現在価値が86前後なら70超の要求には応じられない、という判断基準を数値で示せます
この用語をExcelで「組める」状態にする
ステップアップの税メリットを償却スケジュールから現在価値まで一気通貫で組み、選択の損益分岐点を数字で示せるようになる。
実務家が確認するポイントとよくある誤解
誤解2:「ステップアップした分だけ買収価格を上げてよい」→ 正しくは、比較すべきは税メリットの現在価値です。設例のように名目150でも現在価値は約86にとどまります。名目値で価格を譲るとバリューを取りこぼします。
誤解3:「会計上ののれんと税務上ののれんは同じ」→ 正しくは別物です。会計上ののれんは企業結合会計のルールで算定され、米国基準やIFRSでは償却しません。実務家はさらに、繰越欠損金が多い場合に選択が本当に有利か、州税の扱いが連邦税と異なる州がないか、届出期限を過ぎていないかを確認します。
日本実務での扱い
(2026年8月時点)日本の税制には、株式取得を資産取得とみなす選択制度は存在しません。税務簿価を引き上げたい場合は、法形式そのものを事業譲渡や非適格の組織再編にする必要があります。日本で税務上ののれんに相当するのが資産調整勘定です。非適格の組織再編や事業譲渡で、支払対価が受け入れた資産・負債の時価純額を超える場合に計上され、一定期間にわたって損金に算入されます(要件・期間は法人税法の定めによります)。逆に適格組織再編であれば資産は帳簿価額で引き継がれ、資産調整勘定も生じません。日本の組織再編税制は「適格か非適格か」で結論が二分される構造で、米国のように法形式を維持したまま税務上の取扱いだけを選択するという発想がない点が構造的な違いです。したがって米国案件では「株式取得でも税務簿価が上がり得る」という前提から検討を始め、タックスヘイブン対策税制や外国税額控除との相互作用も同時に検証します。
面接・モデルテストで問われるポイント
Q:米国企業の買収で、通常の株式取得とSection 338(h)(10)選択はどちらが有利ですか。
「買い手にとっては、資産の税務簿価がステップアップし、のれんを含む無形資産を償却して税負担を減らせる点で選択が有利です。ただし売り手側では資産譲渡益として課税され負担が重くなることが多く、その分の価格上乗せを求められます。判断基準は、買い手の税メリットの現在価値が売り手の追加税負担を上回るかどうかで、上回るなら差額を交渉で配分し、下回るなら通常の株式取得を選びます。」
よくある質問(FAQ)
Q. Section 338(g)選択と(h)(10)選択の違いは何ですか?
A. (g)選択は買い手が単独で行える一方、対象会社側のみなし譲渡益への課税と売り手の株式譲渡益課税が重なり、負担が大きくなり得ます。(h)(10)選択は共同選択で、売り手が一定の要件を満たす場合に一段階の課税で済む構造になります。
Q. 連結財務諸表にはこの選択の影響が出ますか?
A. 会計上の企業結合処理は取得の実態に基づくため取得原価の配分そのものは変わりませんが、税務簿価が変わることで一時差異の金額が変わり、繰延税金資産・負債の計上額が変動します。結果として、のれんの金額や取得後の実効税率に影響が及びます。
出典・参考(2026-08確認)
- 国税庁(組織再編税制・資産調整勘定に関する解説資料) https://www.nta.go.jp/
- 経済産業省(日本企業のクロスボーダーM&Aに関する報告書・実務指針) https://www.meti.go.jp/
- OECD(国際課税に関する基礎資料) https://www.oecd.org/
※本記事は教育目的の一般的な解説であり、法務・税務・投資助言ではありません。設例は理解のための架空数値です。