この記事で分かること
- 1719年、フランスのインド会社(通称ミシシッピ会社)が国債で株を引き受けさせ、政府の貸し手になった仕組み
- 政府と会社を一体とみると、株の評価倍率が国債の倍率(約22倍)を上回れば、新株主に帰属する利益が同額の国債の利息を下回ること。株価9,000リーヴルを収益で説明できたかの検算と、研究者の評価の違い
- 発行体と銀行が一体で株を固定価格で買い支えた構造の危険と、現代の債務の株式化・株価の下支えで確かめる点
想定読者:債務の株式化や自社株買いの条件、株価の妥当性を検討する方、バブルの歴史を金融の目で読みたい方
前提知識:PERと配当利回りの意味(本文で説明します)
1719年の9月から10月にかけて、パリのインド会社(Compagnie des Indes。後世「ミシシッピ会社」と呼ばれる)は、1株5,000リーヴルの株を30万株売り出した。払込みに使えたのは現金ではなく、国債の償還に充てる財務省の為替や政府の債務証書だった1。会社はこうして国の債務を肩代わりし、政府から年3%の利息を受け取る貸し手になった。株価は1719年秋から翌年初めにかけて約1万リーヴルに達し(時期は資料で異なる)、1720年3月には会社自身が株を1株9,000リーヴルで買い取り始めた。
この仕組みを組み立てたのはジョン・ロー(John Law)である。経済史家の Velde(2003)は、ローの計画では株価を高く保つこと自体が欠かせない前提だったと論じる2。
本稿は、1716〜1720年のローの一連の制度(「システム」と呼ばれる)のうち、国債を株に取り込む構造と、株価を固定価格で支えた仕組みに絞り、史料と研究で確かめられる範囲で整理する。物価や金銀の規制など通貨制度の論点には立ち入らない。同じ1720年の英国・南海会社の交換条件と分割払いは、南海泡沫事件の記事で扱った。
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1716年5月 | ローが私営の銀行(バンク・ジェネラル)を設立。株の払込みの大半は国債(billets d’État) |
| 1717年8月 | 西方会社(Compagnie d’Occident)が認可され、株を国債で払い込ませて売り出す |
| 1718年12月 | 銀行が国王の銀行(王立銀行)になる(Garber は1719年1月と書く) |
| 1719年5〜8月 | インド・中国会社などを吸収してインド会社となり、7月25日に造幣権、8月27日に総徴税請負を得る |
| 1719年8〜10月 | 政府への永続貸付(年3%)を約し、8月31日に国債の償還を命じる。株30万株を1株5,000リーヴルで売り出す |
| 1719年秋〜12月 | 株を担保にした貸付けと株の買入れ。株価は約1万リーヴルに(時期と水準は資料により異なる)。12月29日に配当200リーヴルを発表 |
| 1720年1月5日 | ローが財務総監に就任 |
| 1720年2月22日 | 銀行と会社が合併し、株価の支援を公式に停止。株価は下落 |
| 1720年3月5日 | 会社が株を1株9,000リーヴルで売買する窓口を開く |
| 1720年5月21日 | 株と銀行券を段階的に切り下げる令(株は5,000リーヴルまで)。27日に撤回、28日にローは更迭(数日後に復帰) |
| 1720年7月17日 | 銀行が支払いを停止 |
| 1720年12月 | ローがフランスを去る |
| 1721年1月 | システムの証券を審査・圧縮する「ヴィザ」が始まる |
| 1770年 | インド会社が清算される(崩壊後も貿易会社として存続していた) |
国債を株に換える——会社が政府の貸し手になった仕組み
ルイ14世の戦争の後、フランスの財政は行き詰まっていた3。ローは1716年5月に私営の銀行(バンク・ジェネラル)を設立し、1717年8月には西方会社(Compagnie d’Occident)が認可された。どちらも株の払込みの大半を、billets d’État と呼ばれる国債で受け付けている4。
1719年8月27日以降、会社は政府に1,200百万リーヴルを年3%で永続的に貸し付けることになり、貸付けは9〜10月に1,600百万リーヴルへ増えた。利息(36百万、のち48百万リーヴル)は、会社が徴税請負の対価として政府に払う額から差し引かれる5。8月31日には国債の償還が命じられた。対象の元本は計1,499.8百万リーヴル、利息は年66.8百万リーヴルで、平均の利回りは約4.45%になる(編集部の計算)6。Velde の解釈では、償還そのものは政府による強制的な買戻しだったが、受け取った代金で株を買うかどうかは保有者に任されていた7。
株は、この資金を集める器だった。株価は8月26日の3,600リーヴルから9月9日には5,350リーヴルに上がり、会社は9月11日、5億リーヴル分の株を1株5,000リーヴルで売り出す許可を求めた。追加分と合わせた発行は30万株、計1,500百万リーヴルである8。直前の株価を下回る固定価格で、国債を持つ人に株を引き受けさせたことになる。
Velde はこの操作を、平均約4.5%の国債を会社の株と取り替える巨大なスワップと整理する9。現代の言葉では、保有者の請求権は国債から会社の株に替わり、政府の債務は会社への年3%の債務に置き換わった。債務は消えていない。債権者が株を受け取り、株を出した会社自身の負債が減る現代のDES
政府と会社を一体とみた損益分岐——株の倍率が国債の倍率を上回ること
政府と会社を一体とみなし、同じ額の債務の利息と新株主に帰属する利益を比べる単純化では、株のPER(株価収益率。株価が1株利益の何倍か)が国債の同じ比率(約22倍)を上回る限り、転換で政府側の負担が減る。Velde(2003)はこう説明する10。逆数でいえば、株の益利回り(1株利益÷株価)が国債の利回りより低いことが条件になる。国債の比率(元本÷年利息)は、償還対象の国債なら1,499.8÷66.8=約22.5倍になる(編集部の計算)。
設例の前提(単純化した設例)
- 利回り5%の債券1億円(利息は年500万円)を持つ投資家が、債券を差し出して、市場価格で1億円分の株を受け取る
- 発行する側は政府と会社を一体とみなし、株の利益はすべて株主に帰属すると仮定する
- 株の評価倍率(PER)を15・20・30・45倍の4通りとする。数値は仮の値で、1719年の実際の条件ではない
PERが45倍なら、新株主に帰属する利益は1億円÷45=年約222万円で、債券の利息より278万円少ない。損益分岐は1÷5%=20倍で、15倍なら1億円÷15=年約667万円で、利息より167万円多くなる。これは利益の帰属で、現金の支払額ではない。
高い倍率は、交換に応じた側から見ると逆の意味を持つ。45倍で換えた後、利益が変わらないまま倍率が15倍に下がれば、1億円で受け取った株の価値は3,333万円、66.7%の減少になる。高い株価は、追加の転換・発行を有利に続けるための条件だった。交換後の下落は、まず株を受け取った側の評価損になり、会社が買戻しを約束していれば発行側にも負担が及ぶ。株価を高く保つことが計画の前提になったのはこのためで、Velde は株価を支えた目的に、転換を有利に進め株を引き受けさせ続けることを挙げる11。
株価9,000リーヴルを収益で説明できたか——配当からの検算
株価のピークは約1万リーヴルとされるが、時期(1719年10月〜1720年1月)と水準(9,500〜10,000リーヴル)は資料と版によって一致しない12。上昇は額面500リーヴル比で約20倍、1718年の約250リーヴル比で約40倍になる(編集部の計算)。
会社は1719年12月29日、1株200リーヴルの配当を発表した13。これを年額とみなせば、株価9,000リーヴルに対して株価÷配当は45倍、配当利回りは2.2%になる(編集部の計算)。Velde は、ローがシステムの金利の目標を2%に置いていたことを挙げ、ロー自身はこの倍率を妥当とみていたと記す14。
収益の見積りは、ローの試算(年91百万・80百万リーヴル)に対し、Velde が項目ごとに検討した値は75.5百万と低い。収益の約3分の2は政府から受け取る利息48百万で、造幣の利益は一回限りとみて0にしている。また、ローの200リーヴルは、会社が担保として持つ株と国王の株を配当の対象から外した計算で、すべての株に配当すれば約125リーヴルになると Velde は指摘する15。
| 前提 | 9,000リーヴルとの関係 | 区分 |
|---|---|---|
| 1719年12月発表の配当200リーヴル(年額とみなす) | 株価÷配当=45倍(配当利回り2.2%) | 編集部の計算 |
| 償還対象の国債(元本÷利息) | 約22.5倍(平均利回り約4.45%) | 編集部の計算(Velde は約22) |
| 全株に配当した場合の配当125リーヴル | 株価÷配当=72倍 | 配当は Velde の見積り、倍率は編集部の計算 |
| 収益75.5百万リーヴル×15倍 | 約1,132百万リーヴル(75.5×15=1,132.5は編集部の計算)、1株約1,875リーヴル(Velde の概算=125×15。9,000の約5分の1) | Velde の試算 |
| オランダ並みの低金利(3%)を仮定 | それでも約2倍の過大評価 | Velde の評価 |
| 9,000を15倍で説明するのに要る配当 | 1株600リーヴル(125リーヴルの4.8倍) | 編集部の計算 |
Velde は、崩壊後(1725〜69年)のインド会社株の株価配当倍率の平均約15倍を当てはめ、約1,132百万リーヴル(75.5×15=1,132.5は編集部の計算)、1株約1,875リーヴル(125×15に当たる Velde の概算)と試算した。9,000リーヴルは約5倍の過大評価になる。一般に、金利(割引率)が低いほど、同じ配当に対して妥当とされる株価の倍率は高くなる。オランダ並みの3%の金利を仮定しても約2倍の過大評価が残り、ローに最も好意的にみても9,000リーヴルの半分程度が限界だという16。
ただし、結論は仮定に左右される。15倍は崩壊後の株価から置いた値で、ローの改革が金利を下げ成長を高めるという当時の期待は織り込まれていない。Garber(1990)は、株価の上昇は会社の拡大と、ローが財政・徴税・貨幣の発行を握ったことへの期待で説明でき、「バブル」という説明は最後の手段に残すべきだと論じる。当時の投資家は実験が行われるまで計画の欠陥を知り得なかった、という見方である17。Velde も、過大評価が非合理な投機を意味するとは限らないと書く。両者の違いは、株価の支えをどう評価するかに表れる。
株の買い支えが銀行券を増やす——発行体と銀行が一体になった構造
ローは1719年秋から株価に直接働きかけた。Dutot によれば、会社(銀行)は株1株を担保に2,500リーヴルを年2%で貸し付け、11月には上昇を抑えるため1週間で3,000万リーヴル分の株を売りに出した18。編集部の整理では、この貸付で株を売らずに資金を得られるため、資金が必要な保有者の売りを減らす方向に働く。Velde(2003)は、この担保貸付が株価に事実上の下限を設けたと解釈する。厳密な下限かは、返済義務・担保処分・借入可能額の条件による。10月には、売りに出された株を一定の価格ですべて買い取るよう会社が命じたとされる。Velde(2003)は、その価格が売出し価格と同じ5,000リーヴルだったとして、国債を株に換えた人に銀行券による額面どおりの払戻しを事実上保証したと解釈したが、2004年の改訂版は同時代の記録から価格を現金4,500リーヴルとしている19。
12月末には、会社が毎日価格を示して株を売買する窓口が設けられ、2月中旬までに約800百万リーヴル分の株を買い入れた20。1720年1月5日にローは財務総監に就き、会社の経営者・銀行の運営者・国の財政の責任者を兼ねた。国王は会社の最大の株主だった(過半ではない)21。
2月22日、銀行と会社は正式に合併し、株価の支援は公式に停止された。株価は3月1日までに支援価格から下落した。支援価格と下落後の価格は Velde の版で異なり、2003年版は9,925→8,500リーヴル、2004年版は9,425→8,000リーヴルとする22。ローはすぐに方針を戻し、3月5日、会社は株を1株9,000リーヴルの固定価格で売買する窓口を開いた23。
固定価格の窓口では、株を売りたい人に会社が銀行券を渡す。Velde(2003)によれば、3月から5月下旬までに会社は1,213.5百万リーヴルで株の27%を買い入れた(分母の株数は未確認)。買入れは銀行券の発行を伴い、発行残高は3月5日の1,089.9百万リーヴルから6月30日には2,359.0百万リーヴルになった(図2)。残高の変化は他の発行・回収も含み、買入額と一致しない24。編集部の整理では、株価の支えは担保貸付、市場での買入れ、固定価格での交換の順に強まり、最後には株価の下支えと銀行券の発行が同じ操作になった。
5月21日、ローは株を9,000リーヴルから5,000リーヴルへ、銀行券も同じように段階的に切り下げる令を出したが、反発を受けて27日に撤回し、28日に更迭された(数日後に復帰)。銀行は7月17日に支払いを停止し、ローは12月初めにフランスを去った25。崩壊の原因として、Velde は株価を高すぎる水準で固定したことと5月以降に秩序立って撤退できなかったことを、Garber は金融政策の急変とローの失脚を挙げる。株を銀行券と結び付けたことが決定的だったという点では、両者は一致する26。
現代の実務への応用——債務の株式化と株価の下支えを点検する5つの視点
1. 債務を株に換える損得は、評価倍率と利回りで測る
DESや債務と株式の交換、社債の償還資金を増資で賄う計画、株式を対価にした買収を検討する場面で使える。第一に、一次的な目安として、株の益利回り(PERの逆数)と置き換える負債の利回りを並べる。本来は税引後の利息、負債の額面と時価、信用リスク、交換後の利益と株数を揃える。第二に、株価が過去の倍率の範囲(中央値や下限)に戻ったときの損得を計算する。第三に、その得が新たな価値の創造なのか、交換に応じる相手からの移転なのかを分ける。設例のとおり、高い倍率で株を渡す得は、倍率が下がれば相手の損になる。
得が今の高い倍率だけに依存し、その倍率を発行体自身が支えているなら、その条件を前提に資本政策を組まない。株を受け取る債権者や売り手の立場なら、その価値を市場価格ではなく本源的価値で確かめてから応じる。
2. 株価から必要な利益を逆算し、当事者の見積りと比べる
増資や新規上場の価格、評価書のレビューで使う。株価に株数を掛け、妥当と考える倍率で割れば、その株価に必要な利益が出る。それを会社の計画と独立した見積りの両方と比べる。あわせて、一回限りの利益(本件の造幣益)を経常的な利益に含めていないか、1株当たりの数字を割る株数がすべての株かを確かめる。ローの200リーヴルは担保株と国王の株を除いた数字だった。現代なら、既発行株のうち配当や議決の対象外の株を確かめ、潜在株式があれば完全希薄化ベースでも別に計算する。比べる倍率は前提の分かるものを使う(DCFとマルチプルのズレ)。
3. 株価の下支えは、資金源と上限を確かめる
自社株買い、親会社や大株主の買い増し、自社株を担保にした融資を見るときの点検である。資金源が手元の余剰資金なのか、新たに負う負債なのか。上限額と期間は決まっているか。編集部の整理では、一定の価格で買い取ると約束することは、窓口が続き、価格と支払手段が保たれる限り、経済的には株主全員に「その価格で売る権利」を渡すのに近く、株の価値がその価格を下回るほど負担が膨らむ。ローの窓口は、資金が自社グループの発行する銀行券で、買い取る量に上限がなかった。上限のない固定価格の買取りや、自社の負債で賄う買い支えは、危険信号として扱う。
4. 発行体・資金の出し手・価格の決め手が同じなら、市場価格を根拠にしない
Velde は、遅くとも1720年1月以降の株の「市場価格」は、ローの政策の表れとしか見られないと書く27。現代でも、売買の多くをグループ会社や関係者が担う銘柄、出資者自身が値付けする資産では、観察される価格が評価の根拠にならないことがある。関連当事者取引の開示で、誰が株を買い、誰が資金を貸し、誰が価格を決めているかを確かめる。三者が重なるなら、独立した評価で価値を確かめ直す。
5. 支えを始める前に、やめ方を決めておく
ローは2月22日に支援をやめて株価が下がると、2週間足らずで固定価格に戻り、5月21日の切り下げ令は6日後に撤回した。自社株買いや株価安定策は、期間・上限・終了の条件を事前に示しておくほうが、終わらせるときの混乱が小さい。投資家の側は、支えがなくなった後の価格を想定しておく。本件では支援の停止から約1週間で、株価は支援価格を約14.4〜15.1%下回った(Velde の2版の数字から編集部が計算)。
| 場面 | ローのシステムで起きたこと | 現代の案件で確かめること |
|---|---|---|
| 債務と株式の交換・株式対価の取引 | 高い株価で国債を株に換えた。政府と会社を一体とみれば、新株主に帰属する利益が国債の利息を下回った | 株の評価倍率と債務の利回りの逆数を目安として比べる(税引後の利息・信用リスク・交換後の利益と株数を揃える)。倍率が過去の範囲に戻ったとき、損をするのは誰か |
| 株価の水準を説明する | 配当200リーヴルを前提に株価9,000リーヴル。収益の試算は当事者ほど高い | 株価から必要な利益を逆算し、独立した見積りと比べる。一回限りの収益と、配当を受ける株数の数え方を確かめる |
| 自社株買い・株価の下支え | 自社の銀行券で株を固定価格で買い取った | 資金源(余剰資金か新たな負債か)、上限額・期間、売りが増えたときに負担が膨らむ約束になっていないか |
| 価格を決める人と評価する人 | ローが会社・銀行・財政を兼ね、国王は大株主 | 関連当事者の売買・融資・価格設定。市場価格を評価の根拠にしてよいか |
| 支えのやめ方 | 5月21日の切り下げ令を6日後に撤回 | 終了の条件と手順が事前に示されているか。急な方針転換が信用を損なわないか |
限界と異説——「バ ブルだったか」は決着していない
Velde は2009年の書籍の章でも、観察される市場は管理されていたとの見方を示す28。統計的な検証の結論も定まらない。Hu と Oxley(2017)の検定では、モデルの置き方で「爆発的」な上昇局面の有無が変わった。この検定は価格がファンダメンタルズから離れたかを直接調べるものではない29。1719年8月の勅令が当初は債券への転換を意図していたのかについても、研究者の解釈が分かれる30。
流布する話には根拠の確かめられないものも多い。パリの通りに人々が押し寄せた逸話の多くは19世紀の Mackay(1841)が出所で、同時代の史料では確かめられない31。「会社は空箱で、最初から詐欺だった」という見方にも Velde は否定的で、会社が船を出しニューオーリンズを建設したこと、ローが少なくとも9.5百万リーヴルをフランスの不動産に投じたことを挙げる。会社は崩壊後も1769年まで貿易会社として活動し、1770年に清算された32。
よくある質問
ミシシッピ・バブルでフランスは破産したのですか。
評価は
株価は最高でいくらまで上がったのですか。
約1万リーヴルです
まとめ——高い株価に頼る債務の株式化は、株価を支え続けることを求める
政府と会社を一体とみれば、国債を株に換える得は株の評価倍率が国債の倍率を上回るときに生じ、転換・発行を有利に続けるには株価を高く保つことが前提になった。株価9,000リーヴルが収益で説明できたかは評価が割れるが、発行体と銀行が一体で株を固定価格で買い取り、買入れが銀行券の発行を伴ったことは確かめられる。現代の案件でも、倍率の前提、必要な利益、支えの資金源と上限、価格を決める人の独立性、やめ方を確かめたい。
脚注
- R1 §5.1 p.20、R3 p.43。発行の日付は資料で1〜2日ずれる(R1:9月11日の申請、9月26日・10月2日の追加。R3:9月12日・9月28日・10月2日)。R3 は国債または王立銀行の銀行券を額面で払込みに使えたと記し、受け付けの方法の細部は資料で異なる。会社の名は当初西方会社、1719年の吸収合併の後はインド会社で、「ミシシッピ会社」は後世の通称である(R3 fn2、R1 §4–4.3)。↩
- R1 §6.1 p.28・§8.3 p.49。ローが株価の目標を持った動機について、R5 の要旨は、貨幣の量が金利に与える効果についてのローの誤解を一因に挙げる(R5 は要旨のみ確認)。動機には推定が含まれる。↩
- R3 p.42。R1 §2.5 は1715年の債務を約28億リーヴルと集計するが、一つの資料による二次集計で年によって数字が動くため、本文では使わない。↩
- 銀行:R1 §3.1 pp.10–11、R3 p.42。設立は1716年5月(特許状は5月2日)で、銀行券の発行開始は6月(R2 Appendix §3.1)。R3 は「1716年6月」と書く。払込みのうち国債の割合は資料で割れる(R1 fn9)。西方会社:R1 §4.1 p.14・§4.4、R3 p.42。R1 は全額を国債で払い込んだとし、R3 は一部が現金だったとする。↩
- R1 §5.1 p.19、R3 p.43。徴税請負の対価は年52百万リーヴル。編集部の計算:1,200×3%=36、1,600×3%=48(百万リーヴル)。↩
- R1 Table 3 p.20(1720年の債務総覧 Etat général des dettes による)。内訳は市庁舎年金961.7百万、廃止された官職254.4百万、billets d’État 250百万など。1720年7月までの追加分を含めると計1,977.1百万リーヴル。R3 は償還対象を額面約15億リーヴルと整理する。編集部の計算:66.8÷1,499.8=4.45%。↩
- R1 §1 p.1・§5.1 p.19。強制の買戻しと任意の転換の区別は Velde の解釈で、債権者が代金をどの形で受け取ったかの細部は資料で異なる(R3 p.43)。↩
- R1 §5.1 p.20、R3 pp.42–43。R1 は5億+10億=15億、R3 は10万株×3回×5,000リーヴル=15億リーヴルで、合計は整合する。当初予定されていた3%の債券は発行されなかった(R1)。株価の点データは R2 で改訂されており、版によって数字が異なる。↩
- R1 §5.1 p.22。Velde は、会社が税収の大半(概算で約90%)を集めて政府に一定額を渡し、残りを株主への配当に回す構図になったとも説明する。DES との比較は編集部の整理で、「DES」は現代の用語である。↩
- R1 §6.1 p.28・§8.3 p.49。編集部の計算:1,499.8÷66.8=22.45。益利回りでの言い換えと、政府と会社を一体とみなし新株主に帰属する利益と利息を比べるという前提の明示は編集部の整理。↩
- R1 §6.1 p.28・§8.4 p.49。Garber(R3)は、価格の支援を制度の一部とみる。↩
- R3 p.43・fn6、R4 t.II pp.327–328(OCR による。頁は推定)、R1 §8.2 p.44・Fig.4 p.16、R2 §6.1 p.30・Appendix。R1 は別の箇所(§8.2.3)でピークを9,000リーヴルと書き、R2 は9,500リーヴルとする。本稿はピークの日を特定しない。倍率は R1 §8.2 pp.44–45・R4 t.II p.327 による。編集部の計算:10,000÷500=20、10,000÷250=40。↩
- R1 §8.2.1 p.45・Table 6 p.29、R2 Appendix §2.9 p.14。R2 によれば、200リーヴルがどの半期分の配当かははっきりしない。本文の倍率と利回りは年額とみなした場合の値である。総会を12月30日とする資料もある。R1 Table 6 は当時の株価を9,413リーヴルとして株価配当倍率を47倍と記す。編集部の計算:9,000÷200=45、200÷9,000=2.2%。↩
- R1 §8.2.1 p.46。Velde は、ローが同じ時期に、会社は5%を超える収益を稼げると説明しており、2%の目標と食い違うとも指摘する(R1 §8.1・§8.4)。ローの説明は後年の弁明を含む当事者の説明で、R1 が引くローの著作(Law 1934)は本稿では確認していない。↩
- R1 Table 10 p.45・§8.2.1 pp.45–46。各見積りの合計は編集部が内訳から検算した。政府の利息が収益の「ほぼ3分の2」とするのは R1 §8.2.2 p.46。配当の対象株数についてのローの説明(担保株10万株と国王の10万株を除く40万株に200リーヴル)は、1723年の著作による当事者の説明(R1 による)。↩
- R1 §8.2.2–8.2.3 pp.46–48。15倍は1725〜69年のインド会社株の株価配当倍率(4〜24倍、平均約15倍:R1 Figure 15)に基づく仮定で、後年の株価から置いた値である。R1 は 1132mL と書く(75.5×15=1,132.5、編集部の検算)。1株1,875リーヴルは R1 の概算で、125×15と一致する。R1 の要約(p.1)は過大評価を2〜5倍とする。R2 はピークを9,500リーヴルとして計算しており、倍率は版で異なる。編集部の計算:9,000÷15=600、600÷125=4.8。↩
- R3 pp.35–36, 46–47。Garber の数値の多くは Harsin(1928)・Faure(1977)・Murphy(1986)に依拠している(R3 fn4)。Velde の記述は R1 §8.2.4 p.48。↩
- R4 t.II pp.327–328(1738年初版の著作の1754年版。OCR による)、R1 §8.2.4 p.48。担保貸付が株価の下限になったという見方は R1 の解釈(”effectively putting a floor on the share price”)。Dutot は会社の会計担当者で、記述は崩壊から約18年後の回想である。R1 も Dutot の別の著作を典拠としており、同じ出所に依存するため、独立した二つの確認とはいえない。↩
- R1 §6.1 p.29・§8.2.4 p.48(いずれも Dutot 2000 の引用)、R2 Appendix §2.3 pp.6–7・fn9。R1 は命令の日を10月5日(§6.1)とし、別の箇所では10月9日の決定(§8.2.4)と書く。R2 は、Dutot の数字は約20年後の記述で写本に依存するとして退け、同時代の Buvat の日記と Gazette d’Amsterdam が伝える「900」(現金4,500リーヴルに相当)を採る。本稿は価格を確定しない。↩
- R1 §6.1 p.29(Faure 1977 と Hautchamp 1743 に依拠。いずれも原典は未確認)。資本総額に対する比率は R1 が約16%、R2 が約17%で、基準とする資本総額(R1 4.96十億、R2 4.8十億リーヴル)が版によって異なる。↩
- R1 §5 p.19・§8.1 p.44・§8.3 p.49、R3 p.43。国王の保有は10万株(R1 §8.2.1)。↩
- R1 §6.1 pp.29–30、R2 §6.1 p.30、R3 pp.44–45・fn7。同じ日に、国王が持つ10万株を会社が1株9,000リーヴルで買い戻すことも決まった(R1)。編集部の計算:8,500÷9,925−1=−14.4%、8,000÷9,425−1=−15.1%。↩
- R1 §6.1 p.30、R3 p.45。同時に、引受けの途中だった権利は株に転換された(R1)。↩
- R1 §6.1 p.30(1,213.5百万リーヴルと27%は Hautchamp 1743 の引用。原典は未確認。27%の分母となる株数は R1 に記載がなく、確認できていない)、R1 Table 4 p.25 の列(1)(発行額−焼却額)。R3 は銀行券の最大額を約27億リーヴルと書き、R1 の表と合わない。定義(残高か累計か)の違いの可能性があるが確認できていないため、本稿は R1 の表に固定した。3〜5月の発行額も R3 と R1 で異なる。編集部の計算:2,116.5−1,089.9=1,026.6(買入額1,213.5とは一致しない)。株価の支えの3段階の整理は編集部による。↩
- R1 §6.2 pp.30–31・§6.3・fn48 p.50・§7 p.35、R3 p.45。7月17日を「ローの破産」の日とみる見方は Faure による(R1 fn48)。↩
- R1 §8.4 pp.49–50、R3 pp.45–46。ローの動機についての推定(Velde は金利についての誤算を挙げる)は確かめられない部分を含む。↩
- R1 §8.2.4 p.48。Velde は「おそらく1719年11月か12月から」とも書く。↩
- R5(要旨のみ確認。本文は未読)。↩
- R6 pp.3–5。データは Frehen らの日次株価(1719年7月2日〜1720年11月14日)。定数項を置くと5月の崩落と回復が結果を左右し、バブルとは判断できないと著者自身が注意している。後の公刊版(Economics Letters, 2018)は要旨しか確認していない。↩
- R1 fn23 p.20。Faure は当初案を債券への転換とみて9月の株式発行を別の計画と位置づけ、Murphy は初めから株への転換とみる。Velde は Faure の側に立つ。Faure と Murphy の原典は未読で、R1 の紹介による。↩
- R7(ミシシッピ計画の章)。典拠を示さない19世紀の逸話集で、Mackay 自身が「言い伝えでは」と留保した話を含む。R1・R3・R4 では確認できず、取引の場の様子や個別の人物の逸話は本稿では使わない。↩
- R1 §8.5 p.50・§4.2 p.15・§7.3 pp.39–42。9.5百万リーヴルは Marion(1914)による(R1 経由。原典は未読)。Garber は内部者による誘導の可能性を論点の一つとして挙げる(R3 p.41)。ローが1720年12月にフランスを去ったことは確認できるが、財産を持ち出して逃げたという話は本稿の資料では裏付けられず、Velde は逃亡を計画した者の行動とは見えないとする。↩
- R1 §7.1 pp.36–38・Table 7、§8.5 p.50。Velde は平均23.5%の削減と書く(編集部の計算では (2,211.2−1,700)÷2,211.2=23.1%)。500リーヴル以下の請求は削減されなかった。破産・債務不履行と位置づける見方は Faure と Marion(R1 §8.5・fn48 の紹介)。早い時期の参加者の多くは利益を得たとされる(R3 p.40、R1 §3.3)。↩
- R1 §8.2 p.44、R2 §6.1、R3 p.43、R4 t.II p.327。18,000・1,100という数字は一般向けの記事で見られるが、本稿は原文を確認しておらず、読んだ4資料と食い違うことから採らない。↩
参考文献(2 026年10月確認)
- R1 Velde, François R. “Government Equity and Money: John Law’s System in 1720 France.” Federal Reserve Bank of Chicago Working Paper 2003-31, November 2003(St. Louis Fed FRASER の公開版。本文中の「2003年版」) fraser.stlouisfed.org (参照箇所:§1–8、Table 3・4・6・7・10、Figure 4・15(頁は WP の印字頁)。脚注1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12・13・14・15・16・17・18・19・20・21・22・23・24・25・26・27・30・31・32・33・34の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R2 Velde, François R. “Government Equity and Money: John Law’s System in 1720 France.” Version 1.1, May 17, 2004(著者の改訂稿。本文中の「2004年の改訂版」) heraldica.org (参照箇所:§6.1、Appendix §2.3–2.9・§3.1。脚注4・8・12・13・16・19・20・22・34の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R3 Garber, Peter M. “Famous First Bubbles.” Journal of Economic Perspectives 4(2): 35–54, 1990 doi.org (参照箇所:pp.35–47、fn2・4・6・7。脚注1・3・4・5・6・7・8・11・12・17・21・22・23・24・25・26・31・32・33・34の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R4 Dutot, Nicolas. Réflexions politiques sur les finances, et le commerce, Tome II. La Haye: Vaillant & Prévost, 1754(初版1738。トロント大学のデジタル化版を OCR テキストで参照) archive.org (参照箇所:pp.327–328(頁は OCR 上の推定)。脚注12・18・31・34の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R5 Velde, François R. “Was John Law’s System a Bubble? The Mississippi Bubble Revisited.” In Jeremy Atack and Larry Neal (eds.), The Origins and Development of Financial Markets and Institutions, Cambridge University Press, 2009, pp.99–120(要旨のみ確認) doi.org (参照箇所:要旨。脚注2・28の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R6 Hu, Yang and Les Oxley. “Exuberance in Historical Stock Prices during the Mississippi and South Seas Bubble Episodes.” Working Paper in Economics 17/08, University of Waikato, 2017 repec.its.waikato.ac.nz (参照箇所:pp.3–5。脚注29の根拠。閲覧日:2026年10月)
- R7 Mackay, Charles. Memoirs of Extraordinary Popular Delusions. London, 1841(Project Gutenberg #24518。神話の出所の確認にのみ使用) gutenberg.org (参照箇所:ミシシッピ計画の章。脚注31の根拠。閲覧日:2026年10月)
※本記事は教育目的の一般的な解説であり、投資助言ではありません。図3と本文中の設例は理解のための単純化した設例で、数値は仮の値です(1719年の実際の条件ではありません)。1716〜1721年の数値は各史料・研究が伝えるもので、資料や同じ著者の版によって差があります。図2の系列は Velde の2003年版の表に固定しました。金額の単位のリーヴルは当時のフランスの計算貨幣で、現在の円への換算はしていません。アイキャッチ画像は生成AI(Gemini)で作成したイメージで、史実の場面や実在の証書を再現したものではありません。